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第6章⑨
息子の申し出に久紀が驚いたとしても、表情にまでは現れなかった。温かみを欠いた目つきで、久太郎をひとなでする。そして、
「わざわざ盆休みをつぶして、そんな無意味な提案をしに来たのか?」と言った。
「あの家に価値などない。どうして、そこまでこだわる?」
「父さんや久美おばさんたちにとっては、そうかもしれないね」
久太郎は、つい嫌味を口にする。
「でも、俺にとっては違う。じいちゃんばあちゃんと過ごした大事な家だ。俺はまだ、あの家を残しておきたい」
「誰も住んでいない山奥の家をか?」
「俺が住むよ。大学を卒業したら」
久太郎は言った。
「ちょうどこれから、本格的に就活が始まる。今までは、自分がどんな仕事に向いてるかってことばかり考えていたけど…この際だ。三重で就職するよ。住むのが難しくても、せめて管理のために通えるくらいの距離のところに」
その決断をしたきっかけは、晴の妹の娘、暸子と交わした会話だった。
彼女は言っていたーー家を取り壊した後、そこで過ごした時間や思い出も、失くしてしまったような気になった、と。
その時、久太郎は気づかされたのだ。
祖父母の家がなくなったら、きっと自分も暸子と同じ思いをするだろう、と。
でも久太郎にはまだ、あの家を残すチャンスが残されている、と――。
そのために、なんとしても父親を説得しなければならない。
相変わらず冷めた目で、久紀は言った。
「あんな家にこだわって、人生を棒に振るのか?」
「そういう言い方はやめて。じいちゃん、ばあちゃんや、その土地に住んでいる人、全員を見下す言い方だ。撤回してくれ」
普段よりキツイ言葉を久太郎は並べる。
しかし、父親がそれしきのことで、矛 をおさめるわけもなかった。
「まずは、現実を見るべきだな。あそこには何もない。自然豊かな田舎なんて言われることもあったが、それは他に褒めるところが何もないからだ。暮らしている人間といえば、他に行く場所のない、古い考え方の年寄りばかり。農業以外の産業もない。働き口があるとしても、ろくな給与も望めない。そんな衰退していくだけの場所に、どうして好き好んで行く必要がある?」
「行く意味はあるよ。そういう場所こそ、若い人間が必要なんだ。働き手としても歓迎される。何度か災害地のボランティアに参加したから、経験的に分かる」
久太郎は父親を見すえた。
「ねえ、父さんは自分の生まれ故郷が好きじゃないの? だから、そんなふうに悪口ばかり言うの?」
久紀からは、肯定も否定も返ってこなかった。
そのことは、久太郎を悲しませ、苛立たせた。
「…父さんの目に、俺は未熟者に映るかもしれない。でも、大人の言うことが全部正しいと思えるほど、子どもでもないんだ――これは俺の人生だ。どんなふうに生きるかは、俺自身に決めさせてよ」
久太郎は父親のレコードプレーヤーを見る。
「父さんも、好きなことをして生きたらいい。俺は口をはさまないから」
久紀は肩をすくめ、やっと口を開いた。
「…親父 の家と土地を継いで。今はそれでいいかもしれない。だが、その後はどうする? 結婚して、子どもを持って、自分の子に継がせる気か? きっとその頃には、今よりさらに過疎の状況は悪化している。十分に金を稼げなければ、子どもに苦労をさせることになるんだぞ」
「俺は多分、結婚しない」
「若い頃は、そんなふうに思うかもしれん。だが、年を重ねれば気も変わる」
「結婚しない」
先ほどより強い口調で、久太郎は言った。
「子どもも持たない。誰かと一緒に暮らすことはあるとしても…」
それ以上のことを――自分が同性愛者だと言うことを――久太郎は、父親に言えなかった。
そして、改めて気づかされた。
自分は一人っ子で、兄弟がいない。自分の血を引く子どもをもうけることもないだろう。
父親の妹弟のうち、久美は結婚して姓が変わったし、久治と香絵にはいまだに子どもがいない。
もしこの状態が続くのなら、如月の家は久太郎の代で終わることになる。
ひと昔前なら――それこそ昭和くらいなら、性的嗜好に関わらず、女性と結婚して子どもを産んでもらったか、さもなくば養子をとる選択を迫られただろう。
けれども今は二十一世紀、令和の世だ。
愛してもいない女性と結婚して、相手を不幸にすることも、子どもを家を継がせる道具のように扱うことも、道義的に見て許されるものではない。
誰かの人生を本人の望まぬ形で消費し、犠牲にすることを久太郎は到底、容認できなかった。
「――俺が、最後はきっちり終わらせるよ。家も土地も墓も。だから、お願いです。俺にください」
久太郎は父親に、深々と頭を下げた。
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