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第6章⑩

 久紀から帰ってきたのは沈黙だった。しびれを切らした久太郎から「父さん」と呼びかけられて、ようやく口を動かした。 「は重荷になる。そう思ったから、お前に残さないように私の手で方をつけるつもりだった」  その言葉には、わずかばかりではあるが息子への気遣いが感じ取れた。久太郎が言った。 「俺は重荷だなんて思っていない」 「実際に継いでいない内は、そんなことも言える」  久紀は、ため息を吐いた。 「…やってみないと、分からないこともある。まったく。お前は本当に親の言うことを聞かない息子だな」  非難するような言葉。けれども、それが父親なりの許諾の表現だと、久太郎は知っていた。 「アメリカにいる母さんには、いずれ自分で話をつけるんだな。多分、激怒するだろうが。エリカはずっと自分のように、お前に海外で活躍できる人間になってほしいと思っていたから」 「母さんの望む生き方は、俺には合わないよ。元々、英語が苦手だし」  久太郎は苦笑する。父の言う通り、母は、まあ怒るだろう。久太郎の選択を、くだらないとか、負け犬だとかくらいは言いそうだ。  しかし、母の居場所は今、海の彼方の北米大陸である。情熱をそそぐ仕事を放り出してまで、息子を叱りに帰ってくることもないだろう。 「それより、久美おばさんと久治おじさんへの遺産の分配は…」 「そんなことまで、お前が考えなくていい」  久紀がピシャリと言った。 「私の方でどうにかする」 「…ありがとう、父さん」  礼を言う息子に目もくれず、久紀は立ち上がる。止めていたレコードプレーヤーに針を置き、電源を入れる。すぐに、久太郎が名前も知らない陰鬱なクラッシックの曲が流れてきた。 「昼食の用意をしてある。食べて行くか?」  久紀が昼ごはんの準備をする間、久太郎は自分の部屋で服をつめる作業をした。  父親を手伝うこともできたが、もとより物事を一人ですることを好む人間だ。以前、「邪魔になる」と言われてから、久太郎は父の手伝いをあえてしないようにしていた。  晴に合うサイズの服は、ほとんどが中学の頃に買ったものだ。少し年月が経っているが、着られるくらいにはきれいだった。  夏物を中心に持ってきたリュックに入れると、あっと言う間にいっぱいになる。 ーー秋物と冬物は、また別の機会にしよう。  次に来る時は段ボールを用意して、宅急便で一気に送るのもありだろう。  会話のろくにない気づまりな昼食を終えると、久太郎は早々に退散することにした。 「相続のための事務手続きが済んだら、また連絡する」 「分かった」  玄関先で、服を入れたリュックを久太郎は背負う。  父親に挨拶をしようとした時、久紀が唐突に言った。 「この前、お前が三重に連れてきた鈴木君。元気にしているのか?」 「……うん。元気だよ」 「そうか」  久紀が一瞬、はち切れそうなリュックに目を向ける。  久太郎がもう着られなくなった夏服を大量に持って帰ろうとしていることに、久紀は気づいている。けれども結局、その理由を尋ねることはなかった。  辞去する息子を、久紀はいつものそっけない態度のまま見送った。  コピー屋の片隅で、晴は現像した写真を満足げに眺めた。  平田にスマホをもらった後、撮影したものの中から五枚ほど選んだ。一番のお気に入りは、久太郎の祖父母の家で撮った一枚だ。法事の前日、家の玄関口にある靴箱にスマホを置き、タイマーを仕掛けて自分たちを撮った。晴も久太郎もくつろいだ様子で、笑みを浮かべていた。 「…これくらいなら、部屋に飾ってもいいか」  そんなことを思いながら、晴は写真を短パンのポケットにしまう。  さて帰ろうかと立ち上がりかけた時、コピー機の横に置かれたマガジンラックに目が止まった。  『求人〇〇:本体0円』。ご丁寧に、ラックの上に「ご自由にお持ち帰りください」とある。晴は無料求人誌の一冊手に取り、アパートに戻った後、パラパラとめくった。 「ホール? キッチン? …ああ。食堂の仕事か」  分からない単語も多かったが、幸いスマホですぐ調べがついた。  雑誌には、いろいろな仕事が載せられていた。身体を使う肉体労働が多いが、事務職もある。晴はとりわけ、タクシーやバスの運転手に興味をそそられたが、残念ながらこの時代の免許が必要だった。  読んでいる途中で、天井を仰いで一息入れる。  もし、この時代に残るならーー久太郎と一緒にいることを選ぶなら、いずれ何らかの形で働いて金を稼ぐ必要がある。小学校を卒業した後、晴は短い間だが、島の外の造船所で働いていた。だが、どの少年もいずれ兵隊に入ることを望まれていた時代だ。晴も少年飛行学校に入って、飛行兵になった。  飛んでいる間は、死と隣り合わせの日々だった。戦争がなくなった後のことなど、考える暇もなかった。  航空機を操縦する以外に、自分に何ができるのか。何をすれば、久太郎の負担を軽くすることができるのか。  ちょっとずつ、考えてもいいかもしれなかった。

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