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第7章①

 眠りから覚醒した時、晴はいくぶんか違和感を抱いた。 「…久太郎?」  温もりを求める手が空振りする。目を開けると、布団に横たわっているのは晴ひとりで、久太郎の姿はどこにもなかった。  眠気の残る頭を振り、スマホで時刻を確かめる。 「十時五十分――って、ほぼ昼じゃないか!?」  晴は仰天した。久太郎がいないのも、当然だった。とっくに起きて学習塾のアルバイトに行っている時間だ。  どうやら、寝ている晴をそのままにして久太郎は出かけたらしい。一組分の布団が、ベッドの上にきちんとたたまれた状態で置かれていた。  晴の方も、ちゃんとTシャツとズボンを身につけている。自分で着た覚えはない。裸のまま寝続けるのは良くないと思って、久太郎が着せてくれたらしかった。  体の調子は、まあまあだった。痛むところはある。しかし、耐えがたいというほどでもない。それよりも、空腹の方が深刻だった。  晴はエアコンの効いた部屋を横切り、冷蔵庫へ向かう。扉を開けて、首を傾げた。 「…あれ? ゼリーが一個も減ってない」  ちゃぶ台へ目を向ける。久太郎がそこで朝食をとった形跡はなく、またメモの類も残っていなかった。  どうやら、久太郎の方も爆睡して寝過ごし、時間ギリギリで出発したらしかった。  晴はゼリーの一つを取り出し、三口でたいらげた。寒天はうまく固まり、味も問題なかったが、二人で食べた方が絶対にうまかっただろう。  残りは久太郎が帰宅してから食べることにし、晴は冷蔵庫の残り物で、遅い朝食をとることにした。  食べ終えた後は特に何をするでもなく、ゴロゴロして過ごした。  仰向けに寝転がって、昨日の夜のことを思い起こす。  自分はよかったーーこれ以上、望めないくらいに。  久太郎の方は、どうだったろうか?――夕方には戻ってくるので、その時に感想を聞いてみようと晴は思った。 「…――遅いな」  時計の針が何周かする間に、部屋に差し込む日の光が徐々に橙色に変わっていった。  五時を過ぎたところで、晴はスマホの待ち受け画面を開いた。新着メッセージは、ひとつも入っていない。不審を覚える。晴がスマホを持つようになって以来、久太郎は出かけている間にいつも、一度か二度はメッセージを送ってる。今日に限って、それがなかった。 「…不安がっても仕方ないか。きっと大したことじゃない」  晴は声に出して、自分を励ました。晴が聞いていなかっただけで、元々、遅くなる予定だったのかもしれない。だとしたら、夕飯を作って待っていればいいだけの話だった。 「………」  一分おきに時計を見る。現在、午後七時七分。  いくらなんでも遅過ぎだった。久太郎が晴ひとりをアパートに残して、こんなに遅くなったことは今までない。仮に遅くなるとしても、今の晴はスマホを持っている。ひとこと連絡を入れることくらい、できるだろう。  しびれを切らした晴は、自分からメッセージを送ることにした。アプリを起動させ、連絡帳のアイコンを指で押す。  そこで、おかしなことが起こっていることに気づいた。 「……あれ?」  画面には、虎猫のアイコンと名前しか表示されなかった――「平田」と。  登録したはずの久太郎の名前が、なぜか消えている。  不安にかられて電話帳を開いてみたら、同じことが起こっていた。 「なんでだ?」  こんな不具合、今まで起こったことがない。それとも、晴が知らないだけで起こり得るものなのだろうか。  ただひとつ言えることがあるとすれば、晴ひとりでこの問題を解決するのは、無理だと言うことだった。  晴は迷った。スマホの不具合は、久太郎が帰ってきてから聞けばいい。けれども、なぜか今日に限って、いつもの帰宅時間を過ぎても帰ってこない。 「……」  晴がこの時代で頼りにできる人間は、あとひとりしか知らなかった。 「――こんばんは、鈴木君。どうしたんだい、こんな時間に」  電話の向こうで、平田呉葉がのどをゴロゴロと鳴らした。 「あ、呉葉。ちょっとスマホに問題が起こったんだ。――今、大丈夫か?」 「ん? まあ、短時間なら構わないよ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の集った伏魔殿から、私ひとりがいなくなったところで支障はあるまい」 「…妖怪退治にでも、出かけてるのか?」 「いいや。今、お盆だろ。父親が親類何人かと集まって、ホテルで食事しているだけさ。それで、スマホがどうしたんだって?」 「前に、呉葉に入れてもらった久太郎の連絡先が、どういうわけか消えたんだ。メッセージのアプリからも電話帳からも」 「え?……いや、ちょっと待ってくれ。どういうことだ? もう一度、言ってもらえるか?」 「だーかーら。久太郎の連絡先が、スマホの画面に出てこないんだ。電話番号は覚えているから、かけようと思えば、かけられるんだが…」  言いながら、先にそうすべきだったと晴は思い至る。そうだ。最初から、平田ではなく久太郎にかければよかったのだ。  久太郎が電話に出てさえくれれば、帰宅が遅い理由も説明してもらえるはずだ。 「――親父さんたちとの食事。邪魔して悪かったな、呉葉。まず、久太郎にかけてみるよ」 「いやいや、待ちたまえ、君。電話を切る前に、私に説明してもらえないか?」   通話を終えようとした晴の耳に、平田の台詞が鋭い刃となって突き刺さった。 「その……キュウタロウって、誰だい?」

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