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第7章③
平田はさらに続けた。
「君が今いるのは、間違いなく私の下宿だ。部屋のあちこちに、私の私物が残っているはずだ。クローゼットを見てくれ」
言われるまま、晴は物入れを開ける。昨日まで、そこには久太郎の服が入っていた。
けれども今はーー平田の言う通りだった。どう見ても女物にしか見えないサイズとデザインの服が、そこに並んでいた。
その時になってようやく、晴は目覚めた際に抱いた違和感の正体に気づいた。
本棚だ。
久太郎の本棚には、鎌倉時代の歴史や仏教関係の本が何冊も並んでいた。しかし、それらが消え去って、代わりに日本の陸海軍の兵器や元軍人の回想録で占められていた。
足元が崩れるような感覚に、晴は襲われた。それを味わうのは、二度目のことだった。
一度目は、ここが昭和二十年ではなく、八十年後の世界だと知った時。
そして今、久太郎と過ごした日々が、根こそぎ否定されようとしている。
「何が、どうなってるんだよ…」
晴は本棚の前でへたり込んだ。
耳に押し当てたままのスマホから、平田の声が聞こえてくる。
「…この期 に及んで、こんなことを聞くのもあれだが。鈴木君。君、私をかついでいるわけじゃないんだよな?」
「そんなことをする理由がないだろ」
「よろしい。では、君の言葉を全面的に信じるとしよう。その上で状況を整理すると、だ――君がタイムスリップしてこの時代にやって来てからの記憶と、私が君に出会ってからの記憶の間に、どういうわけかズレが生じている。そして君の反応を見る限り、客観的に見て、今の世界は私の記憶の延長にある」
平田はスマホを置いて、スピーカー機能に切り替えたようだ。しゃべる合間に、紙に字を書くかすかな音が混じる。
「このズレが発覚したのは、つい先ほどのことだ。ちなみに、私の視点で言うと、君と一緒に倉敷に行き、君の妹の明子さんに会って車で帰ってきた時点ではこのズレはまだなかった。キュウタロウという人物のことなぞ、君は一度も口にしていない」
「…俺と呉葉と、それに久太郎の三人で明子に会いに行ったんだ」
「いいや。明子さんに会った時にいたのは、私と鈴木君、それに明子さんの娘の暸子さんだけだ。キュウタロウなんて人間はいない。少なくとも、私の方の記憶では」
「……」
「いいかい。君の身に起こったことが、全て事実だとするとーーこれは単なる記憶のズレじゃない! 私たちが気づかない内に、過去が改変されたんだ。だが、原因はなんだ?」
平田がつぶやく。
「今、私と君が直面している事象には、必ず何か原因があるはずだ。鈴木君。君、例のマッチに匹敵するような奇妙なアイテムを、如月大尉からもらったりしてないか?」
「ない……って、如月大尉どののことは知ってるのか?」
「知っている。君自身が話してくれた。戦死した君の元上官だろう。その人物から譲られたマッチを使ったせいで、君はこの時代に飛ばされた」
「久太郎は、如月大尉どののひ孫なんだ」
「その話は初耳だな。くだんの大尉に、生後何ヶ月かの息子がいたことは聞いたが…――例のマッチのようなものが原因でないなら。ほかに理由が存在するはずだ。それも、君が倉敷から京都に帰り、先ほど私に電話するまでの二日間のことが、まず可能性として考えられる」
「鈴木君」と平田は呼びかける。
「この二日の行動を思い出してくれ。君と、その如月大尉のひ孫であるキュウタロウという人物との出会いが失われてしまうような、特別なことをしなかったか?」
特別なことと言われ、晴が真っ先に思い出したのは昨夜の行為だ。久太郎と情を交わした。特別で、間違いなく一生忘れられない思い出になるだろう。
けれども、それが今の状況とつながる原因になるとは、どうしても思えなかった。
「…いや、もしかしたら、些細なことが原因かもしれない」
平田は訂正した。
「君が気にも止めなかったような行動が、思いがけなく原因になったかもしれない。とにかく時間をあげるから、この二日間のことを、できるだけ詳細に思い出してくれ」
「分かった」
「それから、君の言うキュウタロウという人間について、詳しく教えてくれ。私の方で探してみる」
晴は気を落ち着かせ、知っていることを平田に語った。
久太郎の生年月日、本籍地(免許証を見て覚えていた)、家族や親戚の名前とその職業、それと本人の通っていた大学と在籍していた学部、アルバイト先の学習塾、所持していたスマホの電話番号。さらに、酒を飲んで寝てしまった失敗談まで――。
聞き終えた後、平田が晴を力づけるように言った。
「O.K. だ。これだけ分かっていたら、十分だ。本人か親類の内、一人くらいはSNSをやってるだろうし、一人は医者だというから、そこから辿ることができると思う――さて。もうすぐ、伏魔殿の方も、お開きになる時間だ。家に帰ったら、すぐに調査を始めるよ」
「頼む。何か分かったら、夜中でもいい。すぐに教えてくれ」
「…君。声の感じからして、だいぶ参っているね」
珍しく、平田が気遣いを見せる。
「どのみち明日、そちらに行くよ。その時に改めて会って話をしよう」
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