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第7章⑦

「ご子孫の方々は、今もこちらにいらっしゃるのですか?」  平田が尋ねると、住職の妻は表情を曇らせた。 「…いいえ。現在、うちの檀家に如月さまの名はすでにありません。というのも――」  住職の妻の口から、理由が語られる。  それを聞いて、晴は思わず叫んだ。 「そんなはずない!」  晴の反応に、住職の妻が目をしばたかせた。それまでほとんど無言で通していた若者が突然、大声を出したので、余計に驚いたようだった。  その場を救ったのは、平田の父だった。 「ーー鈴木君、この方に失礼だよ。落ち着きなさい」  その声に威圧感はなく、いっそ物柔らかでさえあった。しかし、なぜか晴は逆らえなかった。平田の父親が晴よりはるかに年長者だという理由だけではない。  人を従わせる何かを、この紳士然とした老人は自然に持ち合わせているようだった。  うなだれる晴の横で、平田の父が言った。 「差し支えなければ、如月久弥大尉と、それに一族の方々の墓にご案内いただけますか? もちろん、墓所にまだ残っていればの話ですが…」  頭の真上から太陽が容赦無く照りつけてくる。  お盆の時期である。晴と久太郎が訪れた後も、新たに墓参りする者が絶えなかったらしい。墓地のあちこちで、供えられた花の数は増え、二、三の墓には真新しい卒塔婆が立てられていた。  もっとも、晴たちが案内された墓には、そんなものは一切なかった。  最後に清掃されたのは、一体いつごろだろうか。少なくとも、数年か、あるいは十年以上放置されていたように見える。  古い墓だった。表面は長年、風雨にさらされて傷み、穴ができ、あちこち苔がこびりついている。それでも正面に彫られた「如月家先祖代々之墓」の文字は、かろうじて読み取れた。  晴は平田と共に、墓の裏側へまわった。この墓に埋葬された如月家の者たちの名前が、連なって刻まれている。  その最後尾に、まるで寄り添うように三つの名前があった。 ―― ……… 俗名 久弥 昭和二十年六月一日没 享年二十七 ―― ……… 俗名 朝子 昭和二十年六月二十六日没 享年二十四 ―― ……… 俗名 友弥 昭和二十年六月二十六日没 享年一 「――…昭和二十年六月二十六日? これ、鈴木君がこの時代に飛ばされた日じゃないか」  墓から少し離れたところで待つ父親の耳に入らぬよう、平田は小声で話す。  彼女の言葉を、晴は上の空で聞いた。  頭の中は、あの日のことで――昭和二十年六月二十六日の光景で、占められていた。 〈かもくじら(B 29)の大集団が、東海、近畿地方へ向けて侵入中……ーー目標は大阪、名古屋および岐阜、各務原、四日市と推定……〉   ――晴が所属する『飛燕』の編隊が、三重県上空へ入る。     風防ガラスから眼下を見た時に、晴はふと思い出した。     津市の市街のどこかに、如月久弥の妻と生まれたばかりの息子がいる、と――   ――これから、戦闘機を駆って戦わなければならない。     そんな時に、晴は如月の戦死を悼み、泣きそうになっていた。     この戦場から、とにかく逃げ出したかった。     そして如月からもらったマッチを擦った――    …この時代に来た後。晴が落ち込んでいた時に、久太郎はこう言って慰めた。 〈この世界のことは、全てどこかでつながっている。何にも影響を受けず、逆に与えずに終わることなんて、一つもない――〉 〈ひいじいさんや、晴くんや、晴くんの仲間のおかげで、助かった命もきっとあったはずだ。俺は、そう信じるよ〉  …晴はあの日、空の戦場から逃げ出した。  逃げ出して、八十年後の未来にやって来た。  久太郎に出会って、彼を好きになった。そして ーー 一緒に生きようとした。  この時代の人間になろうとした。 「――…呉葉。お前、間違ってたよ」  晴は言った。 「俺がこの時代に残ったところで、過去に何も影響は出ないって、お前は言った。この時代にも大した影響は与えないって言った」 「…? いや、私はそんなこと言った覚えは……ああ。改変される前の過去での話か」 「そうだ。お前は、こうも言ったんだ。俺たち搭乗員が戦おうが戦うまいが、民間人に出る被害に、ほとんど差はでなかったって」 「いかにも、私が言いそうなことだな。…それで? どうして、そんなことを言い出した」 「それも、間違ってたからだよ。少なくとも、ここに名前がある如月大尉どのの奥さんと、息子さん…久太郎のじいちゃんは、本当はこの日に死んでなんかいなかった! 如月友弥はずっと長生きして、つい一昨年まで生きてたんだ」  ついに晴は、すべてを悟った。 「! 本当なら俺はあの日、B29と戦って死んだ。でも、結果的に津市にいた大尉どのの息子さんを助けたんだ。当時、生まれてまもなかった息子さんは成人して、三人の子どもをもうけた。その一人がまた結婚して、子どもが生まれた。それが久太郎だ! ーーだけど俺は、戦う前にマッチを擦って、この時代に逃げた」  晴は墓石に爪を立てる。 「…俺は、ずっと迷っていた。元の時代に帰るべきなんじゃないかって。でも久太郎のことを好きになって……妹に、明子に過去を変えなくてもいいと言われて……そうだよ。あの夜だ。この時代の人間になって、久太郎と一緒に生きようと決めた。それが、原因だったんだ」  晴は嗚咽をこぼした。本当に救いようがない。  誰のせいでもない。自分のせいだった。  久太郎の存在を消し去ってしまったのは、他でもない。晴の決断そのものだった。 「俺は、戦場から逃げ出した――そのせいで、救うはずだった如月大尉どのの奥さんと息子さんを、死なせちまったんだよ!」

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