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第7章⑨
「呉葉ちゃんには、教えていないことなんだが…」
平田の父は運転しながら、晴に種明かしをした。
「この車は、前の座席にも後ろの座席にも、高性能の集音マイクが仕込まれている。そして、隠しボタンを押すと、指向性スピーカーから特定の座席に座っている人間にのみ、リアルタイムで会話が伝わるようになっているんだ――要はね。行きに後ろの席で呉葉ちゃんと鈴木君が交わしていた会話は、全部、私に筒抜けだったということさ」
晴は、あっけにとられた。
父親について、平田はさんざんな言葉で評していたが、確かに抜け目ない人物であることは間違いないようだった。
閉じられた仕切り越しに、晴は後ろの席をうかがう。最初から父親の手のひらの上で踊らされていたとはつゆ知らず、平田が安らかに眠っていた。
「…お嬢さんのことが、心配なんですね」
晴が言うと、平田の父はうれしそうにうなずいた。
「おお、君は理解を示してくれる人間か。さすが、私と世代が近いだけのことはある。最近はやれ子どもの自主性を重んじろだの、プライバシーを尊重しろだの、そういう意見が主流な世の中になってしまったけど…――若い女の子を食いものにする最低最悪の輩は、昔も今も、そこらじゅうにいるんだよ。加えて、私は職業柄、味方も多いが、同じくらいに敵もいる。娘の身の安全に、人一倍、気を使うのは当然のことだ」
「特に俺のような怪しい男は、警戒するのが当然だ、と」
「その通り。大学が夏休みに入ってから、呉葉ちゃんの様子がどうもおかしくてね。なぜか早々に我が家に戻ってきたし、花火大会の時には、友人だと言って君を連れてきた。友人? 男の? 理解し難かった私は、秘書に指示して、すぐに君について調べさせたよ。しかし、あにはからんや。おかしなことに、君についての情報がまったく出てこなかった。まるで、ある日突然、この世に現れたみたいに。こんなことは初めてだったから、驚いたよ」
「…俺が、昭和二十年から来た人間だと、信じるんですか?」
「そうだね…少なくとも、君が本来、この時代に存在しない人間だという証拠は、山ほど見つかっている。加えて、私は嘘を見破るのが得意だと自負しているが、君に、虚言を吐いている兆候は見られない。呉葉ちゃんに語った君の話は、実に突拍子もないが、整合性をもって君という存在を説明できるのも事実だ――と、その上で鈴木君。いくつか、提案というかお願いがあるんだ」
平田の父が、すっと目を細める。その仕草は、最初に晴に会った時の平田の反応にそっくりだった。
「君がこの時代に居続けるというなら、手助けをしよう。手はじめに、今日のうちに適当な場所に、部屋を用意する。だからね。とっとと娘の下宿から、出て行ってくれ。君が女性に性的関心を抱いておらず、目下、ただ一人の男に執着している点は分かっている。それでも、よく知らない男が、娘の部屋に出入りしているのは、父親として気分の良いものではないのでね」
「もっともな話です」
晴は恐縮した。
「その…配慮が足らなかった点、謝ります」
「まあ、鈴木君をあまり責め立てるのも、かわいそうかな。君の経験した過去において、あの部屋を借りていたのは、呉葉ちゃんではなく、如月久太郎という青年だったらしいから」
「お嬢さんの部屋からは、今夜中に出て行きます。それと――」
晴は告げた。
「手助けの申し出はありがたいですが、俺には必要ないです」
その言葉を聞いて、平田の父の横顔に驚きが走った。
「――それほど早く決断して、後悔しないのかい?」
「ずるずると先延ばしにしていたら。臆病者の自分のことです。きっと、自分の弱さに負けて大切なものをみすみす失くしてしまうのが、目に見えています。そうなったら、いよいよ自分を許せなくなりますので」
「…下ろすのは、七条大橋のところでいいかな?」
「はい。お願いします」
ちょうど、車が高速道路の降り口に近づく。一般道路に出て、市街地に入る。
しばらく沈黙が続いた後、平田の父がおもむろに口を開いた。
「ーー大正十年だから、君より五歳年上だな」
「え?」
「私の父親だよ。太平洋戦争中、一兵卒として南方に送られた。そこで、敵兵ではなく飢餓に、銃弾ではなくマラリアを媒介する蚊に苦しめられた。父は衰弱し、いよいよ歩くこともままならなくなった。逃げる味方について行けなくなったその哀れな男に、上官が最後に渡したものが何だったと思う? …手榴弾だ。それで、自死しろということだった。だがアメリカ軍が迫り、部隊の仲間が自ら命を絶っていく中、父はただ一人、武器をすべて捨てて、身一つで米軍に投降した。他の誰に言われたわけでもない。自分で、そう決断を下した」
「………」
「戦後間もない頃、そのことを非難する人間が何人もいた。命を惜しんだ臆病者だとーーだがそんなものは、岡目八目のたわごとだ。狂気と錯乱が満ちた場所で、自分の意志を貫くのがいかに難しいか、その身になってみなければ分からないだろう」
平田の父は言った。
「大切な局面において、自らの意思で決断を下せる人間を臆病者とは言わんよーー鈴木君。君がなそうとしていることがうまくいくよう、健闘を祈る」
車が京都駅の東側を通過する。やがて、朝に待ち合わせたのと同じ場所に停車した。
晴は荷物をまとめる。それから車外に出て、後部座席のドアを開けた。
「おーい。呉葉」
「……うにゃ?」
呼びかけられた平田が、目をこすって周りを見わたす。
「あれ? もう京都に着いたのかい?」
「そうだよ。今日はありがとな。帰ったら、ゆっくり寝てくれ」
「ああ…」
平田はわずかだが、晴の態度に不審を抱いたようだ。それが形になる前に、晴は言った。
「また、明日にでも連絡する。それじゃ」
ドアを閉め、後ろに離れる。走り去る車が見えなくなるまで、晴は手を振った。
それから、下宿に戻るべく、一番近い私鉄の駅に向かって歩いて行った。
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