79 / 87
第8章②
下宿へ戻った晴は、もう一度スマホを起動した。
平田から不在着信が入っていたが、かけ直さなかった。着信だけ消音モードにして、タイマーをしかける。
一時間半ほど仮眠をとって起きると、また平田から不在着信の表示があった。
電話のマークの横に回数が表示されている。「13」。
…ここまで来ると、折り返しかけるのが筋だろう。多分。しかし、平田のことだ。電話して、晴が自分の意見に耳を貸さないと知ったら、怒りだすに決まっている。
「最後くらい、ケンカしたくないな」
晴は電話をかけるかわりに、もう一度メッセージアプリを開き、文章を打ち込んだ。
〈世話になった。部屋の鍵は、郵便受けに入れておく。親父さんにもよろしく伝えてくれ〉
晴はメッセージを送信し、スマホをちゃぶ台の上に裏向きに置いた。
冷蔵庫に残してあったゼリーを食べ、使った食器を洗う。
それが終わると、いよいよ出発の準備に取りかかった。
晴は下着から何からすべて、昭和二十年のものに着がえた。出撃時と同じように、飛行服に身を包み、帽子や眼鏡を装着する。
ポケットにタバコがあることを確認した際、思いついて本棚へ向かった。
三日前に現像した写真を、手に取る。今はすべてが、黒く塗りつぶされてしまった。
けれども、そこには確かに幸福だった瞬間が写っていた。
晴はお守りがわりに、それもタバコと一緒にポケットに滑り込ませた。
拳銃を差し込み、縛帯をまとう。
支度が済むと、洗面所の鏡で自分の姿を確認した。
大丈夫だ。元の通り。どこからどう見ても、一人前の陸軍の戦闘機搭乗員だ。
鏡の中の自分へ、晴は檄を飛ばした。
「しっかりやれよ。鈴木伍長」
最後に、部屋のガスの元栓や窓の鍵がきちんと施錠されているかを確かめる。
そうして、晴は三週間を過ごした場所に別れを告げ、夜の街へ出た。
もう夜中に近い時間だ。先ほど外に出た時、表通りは人で溢れていたが、さすがに今は、まばらになってきている。それでも飛行服を見とがめられて、また警官の厄介になることは避けねばならない。
晴は表通りではなく、細い路地を選んで、山の方へと向かった。
この時代に来た時に、落ちた場所を目指したのには、大した意味があったわけではない。単なる験担ぎのようなものだ。ただ、強いて理由を挙げるとすれば、もう一度だけ目に焼きつけておきたかったのだ。
「――よし。この辺だ」
スマホのライトを懐中電灯代わりにして、晴はついにその場所に辿り着いた。山道に立って振り返り、眼下を望む。
そこには、光で溢れかえった京都の市街地が広がっていた。
何度見ても、息を飲むくらいに美しかった。銀河を丸ごと地上に落としたように、まばゆく輝いている。
ほんの一時ではあったが、晴と久太郎はあの光の一つになれた。同じ一つの屋根の下で、二人一緒にいられた。
その事実だけは、何があろうと絶対に変わることはない。
役目を終えたスマホを、晴は近くの木の幹に置いた。登山客が通りかかれば、きっと交番に届けてくれるだろう。
ポケットから、タバコの箱を取り出しその一本をくわえる。それから、肌身離さず持っていた巾着袋を開け、如月久弥がくれたあのマッチ箱を手にした。
マッチは一度で擦っただけで、火がついた。その炎をくわえたタバコの先に押しつける。
煙を肺いっぱいに吸い込んで、晴はつぶやいた。
「…味、変わらないな。まずいや」
それから、光り輝く街に向かって煙草をかかげた。
「――如月大尉どの!」
晴はマッチをくれた上官にーー晴をこの時代に導いた男に向かって、叫んだ。
「最高の夏休みを過ごさせていただき、ありがとうございました!」
煙草の煙が揺らぎ、光の一つが晴の顔の周りにまとわりつく。目を凝らせば、それが一寸にも満たない、指でつまめるほどの大きさの虫だと分かっただろう。
晴が光虫の動きを目で追いかけようとした時だ。
山道のすぐ近くから、女の声が上がった。
「ーー鈴木君!!」
スマホを手にした平田の姿を目にし、晴は驚いた。
どうやってこの場所を突き止めたのか? ーー平田にカラクリを聞きたかったが、あいにく、もうその時間は残されていなかった。
蛍に似た虫が、一匹、また一匹と煙の中から現れる。直後、水道管が破裂して水がほとばしるように、虫の大群が光の奔流となってあたり一面に溢れ出した。
その時、見た光景を平田は生涯忘れないだろう。
幻惑的な光の渦の中で、飛行服を着た青年が平田に笑いかける。
晴は何も言わず、ただ両足をきっちり合わせ、あたかも上官にするかのように、彼女に向かって、イカした敬礼を決めた。
虫はいよいよ数を増していく。
思わず、平田は腕で顔を覆った。光の渦が晴に向かい、その身を包みこむ。
羽音に混じって、晴の悲鳴が聞こえてきた気がするが、はっきりとしたことは言えない。あれほどいた虫たちは、わずかな間で、暗闇に吸い込まれるように一匹残らず姿を消した。
後には、立ち尽くす平田だけが、その場に残された。
ともだちにシェアしよう!