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第8章④

 晴は増槽燃料を落とす時と同じ手順で、両翼に懸吊された「タ弾」を切り離した。  軽くなった反動で、機首が持ち上がる。そのままの勢いで飛燕たちは上昇、離脱する。  操縦席に座る晴の身にも、足下で爆弾が破裂する振動と音が伝わってきた。 「……やった!」  晴は思わず喝采の声を上げた。   けれども、成功の歓びはほんのわずかな間に、奈落の底に叩き落とされる絶望に取って代わった。  風防ガラス越しに晴は眼下を見た。爆発時の煙が薄くなっていく。  そこには大した被害も受けずに、飛び続けるクジラ(B - 2 9 )たちがいた。  そして、小ざかしい燕たちに気づいて、猛烈な応射を始めた。 「――各機、応戦せよ!」  飛燕の編隊が崩れ、バラバラにB-29の周りにまとわりつこうとする。しかし、クジラの全身から放たれる機銃の弾幕にさえぎられ、近づくことさえ、ままならない。  必死で機体を操りながら、晴は操縦席で喘いだ。 「……だめだ。このままじゃ――」  B-29が津市に焼夷弾を落とす。そこには、如月久弥の妻子がいる。  このままでは、二人を死なせてしまう――。 ――東京の調布飛行場に寄った時、たまたま昔の知り合いに会ってな――  飛び続ける晴の耳に、不意に、如月の声がよみがえる。  如月の知り合いだというその男は黒木といい、誰もが見惚れるほどの美貌と、恐ろしいまでの気性の荒さを兼ね備えていることで、関東以外の飛行隊にまで、その名がとどろいていた。  そして、ひどく腕の立つ搭乗員であり、如月同様、「飛燕」で構成された飛行中隊を率いる大尉だった。 ――そいつはB-29を撃墜したことがあった。どうやったか聞いた時、教えてくれたんだが―― 「…『真上から行け』」晴はつぶやく。  如月がその黒木から聞いたという方法を、晴に教えてくれた。 「『背面位で真上から行け。垂直落下でぶつかるくらいまで接近して、機銃をたたき込み、B-29の翼の前方をすり抜けて離脱しろ』とさ」  如月は、乾いた笑みを浮かべた。 「…無茶苦茶だろ。ベテランの搭乗員でも、こんな曲芸飛行は、まず無理だ。でも、そいつは平然と言うんだよ。『この方法が一番、B公(B-29)の機銃を回避できて、生き残れる可能性が高い』って」 「如月大尉どのでも、その飛び方は難しいですか?」  晴の不躾な問いに、如月は怒りもせずに言った。 「俺は、できないな。多分、落ちていく先で敵の機体に激突するのが関の山だ。ただ――」  如月は笑みを消して、空を見上げた。 「――自分が死んでも構わないって、境地になったら、するかもな」  …周囲では、飛燕たちが散発的にB-29に攻撃をしかけている。もう、統率はあってないようなものだ。搭乗員たちの練度と経験値の低さが、ここに来て露呈していた。  晴は口を引き結び、飛燕のエンジンの出力を上げた。千メートルほど上昇し、怒り狂う巨鯨たちの上方に躍りでる。 ――ぶつかる気でいけ。 ――死ぬ気でいけ。 「ーー如月大尉どの」  晴は祈った。 「あなたの大事なものを、俺は守りたい。だから、どうか力を貸してください」  晴は足のペダルを踏んで、機体を傾ける。天地がひっくり返り、頭の下にきた風防ごしに、入り乱れて戦う敵味方の姿が映る。  一番、近くを飛んでいたB-29の巨躯に、晴は狙いを定める。  そこへ目がけて、操縦桿を目一杯押し込み、一直線に落ちていった。  とてもではないが、計器を見る余裕はなかった。だが、時速六、七百キロには達していたはずだ。B-29の銀色の機体が、見る見る内に大きくなる。  そのB-29にとって、練度の低い日本の戦闘機が、真上から来るのは完全に予想外だったようだ。しかも、そこは十数丁ある機銃が狙えない、唯一の死角だった。  照準器が不要なくらいに接近した瞬間、晴は夢中で機銃のボタンを押した。  両翼に備えつけられた12.7ミリ機関銃が、焼夷弾、炸裂弾、徹甲弾を吐き出す。  当たった感触はあったが、どこに命中したかも分からない。  如月の知り合いは前へ抜けろと言ったが、晴の飛燕はB-29の翼の後ろへすり抜けた。  敵の機銃の死角から出た瞬間、凄まじい砲撃が来た。

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