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第8章⑤
敵の12.7ミリ弾が、飛燕の機体をぶち抜く衝撃が伝わってきた。
だが、晴はそれを気にする余裕もない。それより、落下の勢いを止める方が先だった。
まるで砂に差し込んだように重くなった操縦桿を、晴は手袋をはめた両手で、力のかぎり手前に引いた。じりじりと、機首が持ち上がる。
地面まで千メートルを切ったところで、ようやく水平飛行に戻せた。
「……あ」
手が震えている。身体も震えている。
上を見る。B-29が、煙を上げている。
それでも、落ちる兆候も見せずに飛びつづけていた。
「――なんでだ!? 墜ちろよ!! …ーーうあぁぁあ!!」
絶望のあまり、晴は絶叫した。
その叫び声が消えるより先に、B-29の腹部が、ぱっくりと開いた。
晴が見上げる先で、キラキラと、いくつもの細長い物体が落ちていく――山の中に。
津市の市街から二十キロ以上離れた場所で、焼夷弾が破裂して燃え広がった。
この時、B-29の機内は火災に見舞われていた。
小さく生意気な「飛燕 」が食らわせてきた機銃の弾のうち、よりにもよって炸裂弾が、焼夷弾を搭載した爆弾倉近くで破裂して、炎を上げたのだ。
誘爆を恐れた機長は、目標地点に到達する手前で、抱え込んできたすべての焼夷弾を捨て去ることを決断した。
爆弾を捨て、身軽になったB-29が旋回を始める。
南へ、太平洋の洋上へ。そのまま、米軍機が緊急着陸ができる硫黄島を目指して逃れていった。
…晴はその姿を見届けることはなかった。一機は追い払えた。けれども、あれが運命を決する敵機だったか、まだ決まっていない。
残るB-29の姿を求め、飛燕は再び上昇をはじめる。
晴は敵を撃ち落とす執念に燃えていた。それゆえに、周りへの警戒を完全に怠っていた。
ようやく、敵味方が交戦する空域を見つけ、そちらへ向かおうとした時だった。
飛燕のジュラルミン製の機体を、何発もの二十ミリ弾が貫いた。
着弾の衝撃と共に、左翼と後部に大穴が開き、晴が座る操縦席の背後の風防ガラスが、粉々に砕け散った。何が起こったかを理解できたのは、その後だった。
数機のP-51が嘲笑うように、致命傷を負った飛燕を残して、飛び去って行った。B-29が急襲されたのを無線で聞いて、救援に駆けつけたのだ。
晴は追わなかった。追える状況ではなかった。
漏れた燃料に引火して、翼が燃え始めていた。
晴はとっさに、無線で味方に危険を知らせようとした。しかし、口を開いた瞬間、激痛が背中に走った。たまらず咳き込むと、何かが詰まったように息ができなくなった。
「……!?」
口の中いっぱいに鉄臭い液が満たされる。たまらず、酸素マスクをむしりとり、口の中に溢れたものを吐き出した。
見たことないくらいに大量の血が、操縦桿や床面に飛び散った。
その時になってようやく、晴は自分が先刻、背中から撃たれたことに気づいた。
後ろだから、傷口は見えない。けれども多分、軽傷ではない。
右腕は動くが、左腕が効かない。左半身の感覚が、まったくなくなってしまっていた。
もはや、機体を持ち直すのは無理で、脱出する以外になかった。
晴は震える右手で、操縦席のベルトを外す。しかし、できたのは、そこまでだった。
飛燕の機体が、大きく傾く。晴自身も操縦席から滑り落ち、そのまま床と計器盤の間に転がりこんだ。
倒れた拍子に、ポケットに入れていたものが、床に散乱した。
床に横たわり、動けなくなった晴の耳に、ゴウゴウとものすごい音が聞こえてきた。それが飛燕のエンジンの音か、炎が燃えさかる音か、それとも地面へ向かって墜落していく風切り音かも、もう分からない。
――…熱い…。
炎が、機体の方まで回り出したようだ。操縦席に、煙と熱風が吹き荒れる。
その死の風が、飛行服のポケットからこぼれ落ちた紙の一枚を、宙に舞い上がらせた。
黒煙を貫いて、鮮やかな色彩が、晴の目に飛び込んできた。
まだ動く右腕で、晴は眼鏡を押し上げる。
ヒラヒラと手元に落ちてきたのは、八十年後から持ってきた写真だった。
色が戻っている。人が戻っている。
久太郎がそこにいた。
晴は泣き笑いを浮かべた。
うまくいったのだ。爆弾は、如月友弥の上に落ちずに済んだ。
ちゃんと、自分はやり遂げた。
バンっと大きな音がして、足元から火が噴き出た。
血まみれで横たわる晴には、もう関係なかった。熱も痛みも、感じなかった。
写真をしっかり握りしめる。
目を閉じて、ひたすらに愛した男のことを想った。
「――久太郎」
晴が唇だけで、つぶやいた。
「もう一度でいい…お前に会いたかったな」
右の翼一枚を残して、火球と化した飛燕が、大地めがけて墜落していく。
鈴木晴という青年の身体も、思い出も、何もかも炎の中に飲み込んで。
最後に、山の奥の人知れぬ場所へ、隠れるように落ちていった。
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