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第8章⑦
「――詳しい事情は、私にも説明できないんだ」
見舞いに来た平田は、ひどく困惑していた。
晴が昭和二十年に戻ったことを伝えてくれたのは、彼女だった。
「どうして八月十六日の夜に、京都市内の山中にいて、鈴木君がマッチを使う現場に居合わせたのか――私には全く記憶がない。うちの父親が言うには、夜になって突然、飛び出していったらしい。鈴木君のスマホに入っていた位置情報を知らせるアプリのデータを追って、そこに行ったのは確かなんだが……」
入院中の久太郎にとって、身体に負った傷以上に、晴が何も言わずに過去に戻ったことの方が、精神的にこたえた。
その理由がわかったのは、退院して下宿に戻った後だった。
父親と母親は何度か息子の下宿に来て、着替えや必要なものを病院に持ってきてくれた。しかし、二人ともテーブルの上に置かれた封筒には、目もくれなかったらしい。
表に、〈如月久太郎様〉とはっきり書いてある。
晴が残した手紙だった。
一度読んだだけでは、中身を理解できなかった。平田に来てもらって、一緒に仮説を立て、議論を重ねて、やっと何が起こったのか、つかむことができた。
晴は久太郎の曽祖母と祖父を救うために、昭和二十年に戻った。そして、死んだ。
丸山大尉が戦後に出版した回想録の内容は変わっておらず、晴が昭和二十年六月二十六日に戦死したことを伝えていた。
〈必ず生き残る〉ーー手紙にあったその約束は、果たされずに終わった。
〈世話になったのに、何も返せていない〉ーー何を言うか。晴は、久太郎も含む、如月家の人間たちを救ってくれた。
別れも告げずに、晴がこの時代を去った理由は理解できた。
けれども、救いにはならなかった。
新学期が始まったが、久太郎は大学に行かなかった。
遅れて休学届けが出された時、大半の人間はバイク事故が原因だと思った。本当の理由を知っていたのは、友人の平田だけだ。
久太郎は晴の不在に――その死に、深く傷ついて打ちのめされた。
…再び転機が訪れたのは、祖父友弥の三回忌だった。
雪がちらつく師走のある日曜日、叔母や叔父が、また祖父母の家に集まった。
久太郎の父の久紀は、盆の後の何ヶ月かの間に、妹や弟と遺産について協議を重ねていた。
家と土地は売らずに、長男の久紀がすべて引き継ぐこと。墓もそのまま残すこと。
そのかわり、土地の評価額を三分割した金額を、久美と久治に渡すこと。
家と墓は実質的に久太郎が管理し、いずれ久紀が死んだ後には相続すること――。
久治は二つ返事で承諾した。
久美も渋ったりごねたりしていた挙句、最後には首を縦に振った。
法事の場で甥と会った時、久美は事故のことを話題にしてから、当てつけのように言った。
「それにしても久太郎君も、物好きねぇ。こんな古いだけの家、引き継ぐなんて。きっとこれから大変よ」
久太郎は叔母の顔をじっと見た。
久美は知るよしもない。久治も、そして父も。
この場に集まった如月の血を引く人間が全員、どれだけあやうい幸運があって、存在できているかを。
そして、自分たちを救ってくれた青年がいたことを知ることもないし、感謝のひと言さえ、与えることはない――。
久太郎は、叔母に言った。
「――久美おばさん。俺たちはみんな、誰かのおかげで今があるんです。その事実を簡単に捨て去って忘れてしまうのは……あまりにも、寂しいですよ」
久美は鼻白んだが、久太郎は意に介さなかった。
久太郎は帰り際に、仏間の隣の和室に一枚の写真を飾った。
夏休みにこの家に来た時、玄関で撮った写真。そこに、久太郎と晴が写っていた。
平田は、拾った晴のスマホに入っていたデータをそのまま久太郎にくれた。久太郎は写真をプリントアウトして、持ち歩いていた。
「――晴くん」
喪服姿の久太郎は、写真に向かって語りかける。
「まだ先のことだけど。俺、いずれここに引っ越してくるから。だから自分の家だと思って、いつでも戻って来て。ひいじいさんも、じいちゃんも、きっと君に会いたいはずだ。もちろん俺も……」
久太郎がうつむくと、涙が冷たい畳の上にこぼれた。
「俺も晴くんに、すごく会いたい」
…正月が明けて、久太郎は少しずつ、元の生活に戻っていった。
バイトを再開した。就職活動も始めた。
春が来て、四月を迎えると、大学に戻った。卒業に必要な単位がまだたくさん残っていたし、卒論に本格的に取り組まなければならなかった。
毎日忙しすぎて、そのおかげで少しだけ寂しさは紛れた。
それでも夜、一人きりで下宿の部屋にいると、以前は何とも思わなかった静けさが、喪失感と孤独を伴って久太郎を苦しめた。
そうして、また夏がやって来た。
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