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第3話-5

「温かい物って、食べると幸せになりますよね。急に幸福感が増してくるというか、脳がセロトニンという幸せホルモンを分泌するからだと言われてます。だから温かいうちにいっぱい食べて幸せになってください」 「あ……りがと……」 「俺、奥に引っ込んでますのでゆっくり食べてくださいね」  みっともないところを見せたことよりも掛けられた言葉が温かくて、ドロッと涙が一気に溢れ出てきた。ドライアイで苦しんでいたはずなのに、こんなにも溢れ出てくるなんて知らなかった。  いい年をした男が恥ずかしいと分かっていても、久しぶりにかけられた優しい言葉が、温かいみそ汁と一緒に身体に染み渡る。  涙を流しながら鼻水を啜りながらもう一口味噌汁を啜れば、疲弊し続けて麻痺した心がほんの少し色どりを取り戻してきた。さっきまでのからっぽで死ぬことなんて容易かった心とはほんの少し違っていた。  味噌汁で温まった身体に、今度は牛丼を入れていく。  砂糖と醤油で煮込んだ肉の味が口いっぱいに広がり、それをゆっくりと租借しながら飲みこんでいく。一口また一口と温かいご飯を運びながら、時折鼻水を啜った。  こんなにも食べることが幸せだと感じながらご飯を食べたことはない。小さい頃どうだったか全く思い出せないが、少なくとも今の会社に入ってからは一度もない。冷たいビールを流し込みながら、いつからテーブルに置かれたのかわからない揚げ物を口にするだけの飲み会だって、味を思い出すことなどできない。  チェーンのどこでも同じはずの牛丼とみそ汁が泣けるほど美味しいと感じるくらいに、どうしようもなく疲れているのが感じられて、会社を辞めるほうに気持ちがシフトし始めた。  半熟卵を半分まで減った牛丼に乗せ、箸を入れ卵黄に絡めた牛肉を頬張れば、何とも言えない幸福感が身体中に広がっていく。  漬物のシャリシャリした感触も揚げ物ばかりを食べ続けてきた隆則には心地よい。  本当に時間をかけてゆっくりと全部食べきるころには、不思議なくらいに心にあった閊えが取り除かれ平常心が訪れていた。 「ごちそうさまでした」  小さな声で礼の意味も込めて口にすれば、深夜に似合わない元気な声が飛んでくる。 「ありがとうございましたっ!」  早口なのに活舌がいいから一音一音がちゃんと耳に入ってくる。  奥からあのイケメンの店員がひょこっと顔を出してにっこりと顔を出しフワリと笑いかけてきた。 「また来てくださいね」  ありふれた営業トーク。なのに、隆則の胸がギュッと締め付けられた。  後ろ髪をひかれるような思いで店を出ると秋の夜の冷たい風が頬を撫でるが、満たされた胃袋を抱えた今、冷たさをあまり感じなかった。  隆則は冷たい空気を肺一杯に吸い込んでゆっくりと吐き出した。  もう午前一時を半分も回って電車から降り立つ人もいないせいで人気が全くない商店街、不気味なはずのその道を満ち足りた気持ちで歩き出した。

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