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第6話-9

「そう……ですね」  だが彼は少し困った表情で笑うだけだ。その間に調査の消防隊員を残して消防車が引き上げていく。赤く大きな車が二人の横を通り過ぎると、彼は少しだけ悲しそうな表情でアパートを見つめた。すでに水浸しとなったそれは、暗闇ではよくわからないが半分はもう人が住める状況にはないだろう、壁や窓が落ちて柱がむき出しになっていた。 「この人がやらなきゃならない用事ってまだあるんですか?」  警察に問いかけながら、必死に震えを隠しているようだ。 「じゃあ申し訳ないです、住所と名前と連絡先を教えてください」  年配の警察官がそう言いながら手帳を取り出す。その背後にはまだ不満顔の警官がこちらを睨みつけてきているが、彼が隣に立つと突然申し訳なさそうな顔へと変わっていく。  凄まじいまでの変わりように、住所や氏名を教えるのが怖くなる。  不安で年配の警官に視線をやれば、こちらも困った表情をしている。隆則が告げなければ帰れないようだ。 「あの……できればあまり知られたくないです」 「あー、分かりました。私だけということで」 「すみません……」  僅かな視線の動きで理解したらしい年配警官は小声になり、併せて隆則も声を潜めながら嫌な予感が付き纏いながらも氏名住所を告げた。これをしなければ解放されないというのなら仕方ないと自分に言い聞かせ、だが少し離れた場所にいる若い警官からの視線が痛いくらいに突き刺さる。  悪いことはなにもしていないんだから胸を張れと自分に言い聞かせても、元来の小心が邪魔をして縮こまってしまう。  すべてが終わりようやく解放された隆則はホッと息を吐くと、彼を探した。標準よりもずっと背の高い彼を見つけるのは容易だ。消防車がずっといた場所に立ち、濡れたアパートを見つめている。店ではいつも髪を縛っていたのか、下ろしていると肩にぎりぎり付くくらいの長さで軽くうねっている。傍まで小走りで近づき、顔を見るのが恥ずかしいのですぐい頭を下げた。 「さっきは、助けてくれてありがとうございます」 「いや、俺はなにもしてませんから」 「充分に助けてもらいました……あの、なにかお礼がしたいんですけど、家を教えてもらってもいいですか?」  まさかこんな近所に住んでいるなんて思わなかった。見るだけだった彼の情報が欲しくてつい求めたのがこれだった。 (これは所謂、あれだ。推しの情報何でも欲しい病の仲間だ、きっと)  だが顔を上げれば彼は少し悲しそうな表情をしていた。 「あ……」

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