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第8話-8

(気を許すな)  一瞬でも気を緩めたら絶対に自分は彼に恋をしてしまう。  また叶わなくて辛いだけの恋を……。  嫌ってほど知っている。恋をした瞬間の幸福感も想うだけの寂しさも、叶わないと悟った時の絶望感も、愛する相手を欲する飢餓感も。だから全部を諦めれば襲い来る乾きを気付かないフリができる。  どうしても我慢できなければ、金を払って得られる疑似恋愛で誤魔化せばいい。  本物は、もういらない。  だから遥人へこれ以上気持ちが傾かないように、触れないで欲しい。  けれど、疲れ切った身体はもう眠ること以外を求めていない。これ以上隆則の命令など受けたくないと力を入れることすら放棄している。 「背中を洗えば終わりですから、もう少し我慢してください」  二人で作成した雇用契約書には記載していないのだからここまでする必要はないんだと言いたくて、でも喉から言葉は出ない。  疲れているから、ではない。単純にこの心地よい時間を失いたくないからだ。  自分が大事にされていると錯覚するこの瞬間を。 「シャワーをかけますからね」  ゆっくりと足先から架けられる温かい湯が、色を変えた泡を少しずつ流していく。全部を流し終え、バスタブに隆則の身体を寄りかからせると、遥人はフェイスタオルでまずはと髪を拭い、次に大判のバスタオルを広げて、それを隆則に巻き付けた。 「失礼します」  ヒョイっと荷物のように抱き上げられて驚いているはずなのに、手足をバタつかせるだけの気力がない隆則は小さな声で「下ろして」とかろうじて言えただけで、あとは何もできないでいた。温まった身体が気持ちよくて、本当にもう眠ってしまいそうだ。それを僅かに残っている気力だけでなんとか眠りの縁にしがみついてその奥へと転がり落ちないようにするのが精いっぱいだ。  だらりと垂れた手足から水滴が落ちて床を濡らすのを感じながら、すぐにでも眠ってしまいそうな自分を奮わせる。  ベッドで下ろされ、タオルを押し付けながら身体の水滴が丁寧に拭われていく。擦るのとは違った優しい感触。あらかたの水分を拭い去ったあと、クローゼットを開けて適当に見繕った服を着せられながら、もう無理と隆則はそこで意識を飛ばした。  微かな意識で聞き取ったのは「手の焼ける人ですね……」という、少し呆れたような少し笑っているような、そんな子供に向ける声だった。  目を覚ましたのはそれからまるまる24時間が経過してからだった。夢も見ないほどの深い眠りをたっぷりと貪った頭はまだ機能停止状態でぼんやりしている。なぜ自分がベッドにいるのかもわからないまま周囲を見渡せば、いつもの寝室兼仕事部屋……なのに、何かが違っているように思えた。

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