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第15話-4

 むしろ彼と出会ったからこそ、会社を辞める決意ができたのだ。あのまま居続けていたら確実に毀れていただろう。過労死か自殺かの選択ししかなかったあの瞬間に第三の選択肢を得られたのは幸運だとしか言いようがない。  今自分が生き、僅かでも幸福な時間を味わうことができたのは全部遥人のおかげなんだ。  そんな彼をもう苦しめたくはない。 「でもどうやって切り出せばいいんだろう」  面と向かって「嫌いになった」なんて口にできない。嘘でも彼を嫌う言葉をその耳に届けたくはないし、言いたくもない。 「えっと、別れる時に言う言葉っと」  ネットで検索してみてもしっくりとくるものはなかった。 「無理むりムリ、言えるわけがない!」  そんな事が言える人間ならあのバカ営業からくる仕事を最初から断るし死にそうにもならない。できないからこそ現状から逃げ出そうとしているのだ。 「そうだ、逃げればいいんだ。手紙書いて後はよろしくって感じなら遥人も困らない!」  今日は冴えてるなとどんどんとコマンドを打ちこんでいきながら、これからのことをシミュレーションする。  まずはなるべく顔を合わせないようにしよう。近頃帰りが遅いから顔を合わせないようにするのは簡単だ。仕事をするか帰ってくる前に寝るかすればいい。  次に引っ越しだが、持っていく荷物は少ないから仕事部屋の物さえ持ち出せれば気付かれることはない。 「丸ごとお任せで頼めばいいか」  大事な機械もあるし、梱包からなにから全部プロに任せればいい。  後はこの仕事が終わったら手紙を書いて出ていけば終了だ。 「うん、完璧」  とにかく明日物件を見に行くことを先決しよう。住むところが決まらなければ苦しいままなのだから。  そしてまた一人になればいい。そのほうがずっと気が楽だ。そしてなんとなくだが出ていったならもうここへ戻って来ないような気もしていた。あまりにも遥人との思い出が多すぎて、一人で住むのが辛くなるのが目に見えていた。そして、もういない彼の存在を探しそうで甘やかされたことを思い出して苦しくなりそうだ。 「……遥人が出ていったらここ、売るか」  一年にも満たない期間だったが、初めての恋に浮かれてしまったこの場所に思い入れが強くなってしまった。またここで一人で暮らすのはつらい。だからと言って新しい恋なんかできるはずもないし、こんな自分を好きになってくれる人もいないだろう。 「うん、それがいいな……」  一年半後の売却も視野に入れておこう。  今はただ仕事に集中するだけだと意識をモニターに向けひたすら打ち込んでいく。 (大丈夫、ちゃんとできるはずだ)  ちゃんと別れる、だから遥人はあの子と幸せになって欲しい。  次第に画面が歪んでいくのを何度も強く瞼を閉じて堪え、ひたすら続きを打ち続けていった。

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