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8.殺人と寿司①

 耳のそばで、ぶうんと虫の羽のような音がする。頬が熱い。  庄助はまどろみの中にいた。ずんと地の底に引っ張られるような危うい眠気が、断続的に脳みそを蕩かしてゆく。背中が軋んで痛かった。まるで寝違えたみたいだった。  頭のてっぺんから、冷たい何かが滑り落ちてくる。髪を伝って頬に、頭皮の中まで浸透したものは、耳の裏から輪郭を通って顎へと。 「……あ」  それが水だと気づいて、目が醒めた。と、同時に何が起こったのかが急速に蘇ってきて、吐き気がする。 「おい、寝てんなよ」  耳の横で音と光が炸裂する。痛みがその後を追いかけてじわりと広がる。頬を叩かれたとわかった。わかったが庄助にはどうすることもできない。 「……うっ」  気絶した一瞬の間に、母親の夢を見ていたようだった。後ろ手に結束バンドで拘束され、硬い木製の椅子に座らされていると、暖かい親のぬくもりの記憶が遠い世界のことみたいだ。 「ヤクザだかなんだか知らねえけど、出しゃばりすぎたな」  鼻血で固まった鼻腔にきついアルコールの香りが抜けていく。頭から浴びせられた液体は水ではなく、酒のようであった。それも相当アルコール度数が高いのか、肌に触れて気化した部分がピリピリした。 「火ィつけたら頭ごと燃えるぜ、それ」  茶髪の男が笑いながらひどく残酷なことを言う。庄助が絶望の表情を浮かべたのを見て、他の二人もケタケタと嗤う。 「安心しろよ、こんなとこで燃やさねえから」  彼らはいつか、夜の駐車場で景虎を襲って返り討ちにされた黒弧蛇入(くろこだいる)と名乗っていた半グレ集団だ。  茶髪と、肥ったバリアートの男と、鼻のど真ん中のセプタムに牛みたいな大きなピアスを通している細身の男がいた。ピアスの男以外は、あの駐車場にいたうちの2人だ。  老婆の持っていた封筒の宛先は、タクシーで十数分の距離だった。スマホアプリのマップ機能で辿り着いた先は、ラブホテル街から少し外れた4階建てのビルだった。庄助はそっと中を伺ってみた。  地下から地上2階まではカラオケ店が、その上は炉端焼きの店が入っていたようだが、どちらも看板が下ろされないまま廃業している。封筒の宛先である4階はテナントすら入っていた気配がない。  念のため階段横の集合ポストを覗いてみたが、チラシが乱雑に詰め込まれているだけだった。階段の下にはサドルが抜き去られ、錆の浮いた自転車が放置されている。  エレベーターはなく、階段もチェーンで封鎖されていたが、庄助は周りを見回すと人目がないことを見計らってそれを乗り越えた。  古いコンクリートの階段を4階まで上る。やはりテナントは何も入っていないのか、看板も表札もない。色気のない黒色のスチールのドアが廊下の端と端に2つある。  向かって右のドアをそっと開けると、リノベーションの途中で放り出されたかのように、内壁を取っ払った灰色の鉄筋コンクリートの床と天井が広がっていて、そこにべったりと養生テープで半透明のビニールが貼り付けられてある。窓のある場所は、段ボールとガムテープで目張りしており薄暗く、循環していない淀んだ空気が漂っていた。  なんだかこれでは、まるで外から見えないようにしているみたいだ。  庄助がそう思った時、背後で音がした。 「あ……ッ」  頭に血がのぼっているからといって、あまりに迂闊だったのかもしれない。もしここに詐欺グループが潜んでいるのだとしたら、警察の目や他の組織からの強盗(タタキ)に合うのを逃れるために、ビルの全体あるいは一部をカメラか何かでモニターしている可能性が高かった。  肩を掴まれて腕を捩り上げられたときにはもう遅かった。ポケットの中のスマホと財布を奪われ免許証まで見られて、今に至る。 「まさか飛び込んできたのが、遠藤の子分とはなァ。庄助ちゃんだっけ、マジで何しに来たの? バカなの?」  茶髪はニヤつきながら、庄助の顔を覗き込んだ。

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