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【番外編】アルカロイド・センチメンタル・ブルース①

 庄助の大きなあくびを見ていると、つられそうになる。  国枝は誘発される連鎖反応を奥歯で噛み殺した。組に入って一番短い庄助は、朝から事務所の掃除をするのが日課だ。  窓のサッシを羽根箒で掃き、床のほこりを掃除機で吸い込み、飾ってある観葉植物に適宜水をやる。そうそう客を招くこともないヤクザ組織のフロント企業の事務所とはいえ、乱雑にしておくのは国枝の美意識に沿わない。キレイ好きというよりも、物が多いのが好きではなかった。  朝のメールチェックをデスクでやっている間、ぱたぱたと動き回る金色の髪を見つめるのが、国枝も同じく日課になっていた。  事務所の斜交いのコンビニで買ったホットコーヒーのカップに手のひらを当てると、まだじんわりと温かい。同じコンビニでついでに朝食として買ったBLTサンドの最後の一口。具は全部食べてしまって、トマトの汁しかついていない尻尾の部分を、口の中に押し込んだ。  パサパサしたそれをコーヒーとともに嚥下しながら、ふと庄助を見る。クリムトの複製画の金色の額縁を、乾いた布で拭き取っている最中であった。今日は寝不足なのか、何度も何度もあくびをしている。その背中を見てなるほどな、と国枝は合点して庄助に声をかけた。 「庄助、こっちおいで」  身体ごと振り向いた庄助は、俺何か悪いことでもしましたか? とばかりに不安そうな表情をする。別にそんなつもりで言ったんじゃないのに怖がられているものだ、と国枝は少し悲しくなりつつ手招きをした。 「ここ座って」 「なん……なんですか?」  庄助は一旦掃除用具をバケツの中にまとめてしまうと、怪訝な顔で小首をかしげながら恐る恐る近寄ってきた。  差し出されたパイプのスツールに座らせられると、庄助はいよいよ叱られた犬のようにしゅんとなった。まだ誰も出勤してきていない二人きりの事務所は、静まり返っていてやけに広く感じる。それが庄助には恐ろしかった。何かやらかしただろうかと必死に考えていると、国枝はデスクの引き出しからコンパクトのような何かを取り出し、それを指先に少し取った。 「ちょっと触るな」 「いっ……?」  襟足の短い毛をかき分けて、国枝の冷たい指先が触れる。パーカーのフードをくっと引き下げて背中の方まで覗き込まれ、庄助は焦った。昼から暖かくなると天気予報で言っていたのを聞いて、シャツも着ず素肌にそのまま着てきた。ふわふわとした金色の和毛が揺らぐうなじに触れると、子供みたいに柔らかくきめの細かい肌があった。 「あの、国枝さんっ……!?」 「くすぐったい?」  耳のそばで低い声を出されて、庄助はドキッとした。男物の香水の大人っぽくスパイシーな香りに、ほんのうっすらとタバコと整髪料の匂いが混ざっている。 「えあっ、あ……」  そのままとんとんと首の筋をなぞられた。いつも触れられている景虎の無骨な指とは違う、細くて湿った指先が、皮膚の薄い部分を撫でる。ぞわぞわと鳥肌が立ったが、庄助は拒むこともできず、きつく目を閉じた。  まさかとは思うが、国枝はいやらしいことをするつもりなのだろうか。それは非常に困る。景虎に操立てしているわけでは決してないが、自分のもともとの性指向はヘテロセクシュアルなのであって、そうやすやすと男とばかり寝るわけにはいかない。  でも国枝は上司で怖い人だから、下手な断り方をしたら埋められるかもしれない。庄助は恐ろしいことをぐるぐると考えた挙げ句、 「やっあの国枝さん……国枝さんのこと、俺は人として好きなんですけど、さすがにこんなとこではまずいと……っ! 仕事場ですし」  と、受け入れられないのを場所のせいにして事なきを得ようとした。 「ん……? あははぁ、何勘違いしてんだよ庄助のエッチ」 「エッチて……!」  勘違いと言われたことで、庄助の緊張は一気にとけた。国枝は眉尻を下げて笑っている。普段はやる気も生気も感じられない胡乱な目つきだが、笑顔になると途端に無邪気で優しい印象になる。そういうところが女性にモテる一因なのかもしれない、国枝さんが自分の言ったことで笑うと、なんかちょっと嬉しいもんな。庄助は日頃からそう思っていた。 「はい、終わり」  ふっと身体を離すと、国枝はデスクの上のティッシュペーパーで指先を拭き取った。何をされたかわからず庄助が呆気にとられていると、国枝は丸い朱肉入れのような大きさの化粧品のパレットを、手のひらに乗せて見せた。 「コンシーラー。今日庄助、営業回りでしょ。ダメだよそんなガッツリ、首のとこに痕つけてちゃ」  国枝は苦笑いをして、自分の首筋を指し示した。 「あとっ……!?」  庄助もとっさに自分の首元を探って、その後何かを思い出したかのように顔を真っ赤にした。昨日の夜から朝方にかけて、抱かれまくって意識もそぞろであったし、朝二度寝してしまって急いで家を出た折に気づけなかった。 「あんまりこすったらヨレるだろ。あ、ほら……」  肌色のファンデーションを指先に塗りつけて、もう一度国枝の顔が近づいてくる。自分より一周り以上歳上なのに、肌がキレイだ。整えられた髭も垢抜けていて、中年に差しかかる年代だというのに痩せていて線が細い。そのくせしっかり男っぽくて、国枝さんてフェロモン出てんな。庄助は思った。

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