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10.きつねのよめいり/ごいっしょねがいます②

 綿雲が散らばる空を見上げる。  薫風は都会でも、その気になりさえすればそこここに感じられる。梅雨入り前のほんの少しの間、暖かくて晴れが続くような日々が、庄助は好きだった。 「ん~っめっちゃきもちいい……」  伸びをする庄助の横顔を見て、それセックスのときに言ってくれないかな、と景虎は思った。  早朝の埠頭の倉庫街には二人以外誰もいない。庄助が釣りをしたいと言ったので少し遠出のつもりでやって来た。 「カゲのくせにええ穴場知ってるやん」 「俺は釣りをやらないが、船を借りて沖の方に出ればもっと釣れるらしいぞ。餌が豊富なんだろうな」  へえ、と空返事をしながら、庄助は近くの釣具屋で買った安価な投げ釣り用のロッドに餌をつけている。二人とも、生き餌が気持ち悪いからと言って人工のエサにした。  空が高い。息がしやすい。都会の真ん中から離れるとこんなに視界が開けるのだということを、景虎は初めて意識した。アウトドア用の小さな折りたたみ椅子を、庄助のそれの隣にくっつけて座る。 「なんやねん、近いなぁ……」  ちらっと景虎を見ると、庄助は困ったように短い眉を下げて笑った。普段ならあっち行けとか離れろとか言うところだが、機嫌がいいのかもしれない。 「せや。アリマのばーちゃん、事務所にお礼の品贈ったって言うてた」 「そうか。俺たちも暴力団なのに、何も知らないで殊勝なことだ」 「ウチは老人騙したりせえへんやん」 「……そうだな。でも、もっと悪いことをやってるかもな」 「筆頭がお前みたいな変態なんやし、大丈夫やろ」 「俺は筆頭じゃない」 「変態の方を否定せえよ」  ツッコんだ庄助の裏拳が、バシッと小気味よく景虎の肩にヒットした。糸を垂らした水面がちゃぷんと音を立てた。 「そうだ。昨日、お前が映画の途中で寝たからあの後……ひとりで観てた」 「あ。そうなんや? ごめん、最近がんばってトレーニングしてるから、すぐ疲れて寝てまうねん」  何か心境の変化があったのか、庄助はここしばらく、朝晩の筋トレを欠かさない。ジムに通う余裕はないからと言って、ダンベルや腹筋ローラーや、謎のゴムチューブ様のグッズを買い込んでは、何かしらやっている。すぐ飽きそうだな、と思ってはいるが、景虎は口に出さず見守っている。 「映画、よかったやろ? あれ俺、もう10回くらい観てるから、内容憶えてもーて」  休みの前日だからと昨日の夜、サブスクのヤクザ映画を二人で観た。が、庄助はすぐに景虎の肩にもたれて眠ってしまった。すやすやと眠る庄助の髪の匂いを嗅いでいると、よほど触れたくてたまらなくなったが、景虎は何もしなかった。胸がいっぱいになったからだ。  幸せは言葉にできない。切り取って置いておくこともできない。ただその瞬間そこにあるだけだ。だからかけがえがないのかもしれない。  庄助と居ると、狭くてお世辞にもきれいだとは言えない、何もないアパートの一室が別世界に見える。それまで興味のなかった色んなものが、刺激となって景虎の目に耳に舌に飛び込んでくる。  柔らかい金色の髪を頬に感じながら、景虎は人生で初めてのヤクザ映画を観たのだった。本業からすればまったくのフィクションだが、悪くないと思えた。 「昔の映画だからツッコミどころは多いが、斬り合いのシーンなんかは迫力があったな。あと、そうだな……芸者役の女が色っぽかった」 「ふーん……カゲでもそういう、女を色っぽいとか思うんや」 「意外か?」 「別に? ぜんぜん? あ、かかった」  庄助はそっぽを向いて、バケツに釣れた魚を入れた。そうしてしばらく二人して黙り込むと、波の音しか聞こえなくなる。初夏とはいえ、早朝の海は少し肌寒い。 「……あんたの馬鹿なとこが好き。あたしも馬鹿だから惚れたのよ」  もう一度釣り糸を垂らしながら、唐突に庄助はぽつりと呟いた。伏せた睫毛の先、柔らかいカーブを描く頬と、珍しくしっとりと動く唇に、景虎は見惚れてしまう。 「って、芸者の台詞あるやん。俺、あれが好きで……っ」  景虎は、庄助を抱き寄せた。程よく筋肉のついた肩の、天辺の骨を手のひらで感じる。  驚いて目を瞬かせる庄助は、景虎が欲しかったもの、求めていたものそのものの形をしていた。  庄助は、欲望と誘惑と幸せの形をしている。景虎は、庄助の顔をじっと見つめて言った。 「俺も惚れてる。愛してる、庄助」

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