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【番外編】まごうことなきホワイトデー②

「ハッピーバースデー景虎く〜ん!」  景虎が風呂場の掃除を終えて、洗面所から出てくると、ちょうど帰ってきたところらしい庄助が待ちかまえていた。  庄助は、イタズラを仕掛けたばかりの子供のようにニヤニヤと笑っている。わざとらしく景虎くんだなんて呼んで、何か企んでいるのか。  景虎は訝しんで、ふっとワンルームの部屋の奥の方に目を遣る。いつも二人で使っているローテーブルの上に、小さなホールケーキがちょこんと鎮座していた。 「なんだ?」 「せやから、ハッピーバースデーや言うねん」  庄助は持っていたアザラシの抱き枕を、景虎に押し付けた。景虎は不思議そうな顔で、妙にリアルなその白い顔を見つめた。 「これ、アザラシの赤ちゃんか? なんのアザラシだ」 「なにアザラシかは知らんけど、カゲにやる」 「いいのか? ありがとう。ふふ、生まれたてのアザラシの赤ちゃんは、庄助によく似てるから好きだ……」 「は〜? 俺に? どこがやねん」 「毛が黄ばんでて、眉毛が短くて、鳴き声が汚いところが似てる」 「…………」  向こう脛を蹴り込んでやろうかと思ったが、景虎は慈愛に満ちた顔でアザラシを見ている。誕生日だから我慢してやろうと、庄助は震える拳を握りしめた。  景虎は、大きいアザラシの枕をもちもちと何度も揉みながら、テーブルの前に胡座をかいた。  生クリームのたっぷり乗ったスポンジの上には、ブルーベリー、ラズベリー、カシスなどの小さな木の実が飾られている。ゼラチンでコーティングされたそれらが、室内灯の明かりでキラキラと輝いているのを、景虎は珍しそうに見つめた。 「今日、誕生日って知らんかった。先月お前にプレゼントもらったから、それのお返しもせなって思ったんやけど。……カゲ、何が欲しいかわからんから、適当に目についたもの買ってきてん」  目を逸らし、どこか言い訳のように庄助は言った。耳の先がほんの少し、赤く染まっている。  よく見ると、テーブルの向こうのフローリングには、チーズフォンデュセットと書かれた箱や、串に刺さったタレ付きスルメのボトルなどが固まって置かれている。 「ん……? もしかして庄助は、ホワイトデーと俺の誕生日を、同時に祝ってくれてるのか?」  心底驚いたような声だった。さっきからそう言うてるやんけ、とブツブツ言いながら、庄助はテーブルの向かいに腰を下ろした。 「俺が祝ったら悪いんかよ……」 「……いや、悪くない」  景虎は顔を伏せて横を向いたきり、言葉を発しなくなった。先ほど渡した抱き枕を、腕と胸の間で、ぎゅっと挟むように抱きしめている。  え、なんか怒ってる? 買ってくるものが適当すぎたとか……? それか、感動に咽び泣いてもーてるとか。まさかな。  庄助は恐る恐る、その横顔を覗き込んだ。  景虎の頬が赤い。  いつも血管が透けるほどに青白い景虎の頬が、早咲きの桃の花のような鮮やかな血色を纏っている。  もしかして照れてる? 景虎が? 「お、ええ……?」  信じられなくて、変な声が漏れた。  戸惑ってる? あの、何を考えてるか全くわからない景虎が、誕生日を祝ったというだけで? バチクソに強いヤクザのくせに、こんなことで? 「その……なんと言っていいか。ええと……」  頬を染めて俯く景虎の、今まで見たことのないリアクションに、庄助も焦った。  仮面を貼り付けたような冷たい美しさをもつ景虎だが、こうやって人間っぽい表情をすると可愛いものなんだな、と不覚にも感じてしまう。 「すまない、慣れてなくて。お前が、俺のためにこんな……色々と考えてくれたことが、単純に嬉しくて、驚いてる」  景虎が困ったように眉尻を下げて微笑んだ。彼なりに、不器用ではあるが言葉を組み立て、真っ直ぐに感謝を伝えようとしていることがわかって、今度は庄助が照れてしまう。 「大げさやっちゅーねん……」 「嬉しいよ。ありがとう、庄助」  庄助は景虎のことを、心底ずるいと思った。  だってこんなにドキドキする。  ケーキもアザラシの抱き枕もなにもかも、似合わないって笑い飛ばしてやりたかったのに。  大したことでもないのに、ここまで嬉しそうにされると調子が狂う。本当にずるい。全部ずるい。 「いいからもう……ケーキ食お。あ、せや。あと、コレもやる」  庄助はジーンズの尻ポケットから、小さな紙を出して景虎に渡した。ぴらりと薄いそれには、ケーキ屋の店名と、ケーキの商品名及び値段が書いてある。  何の変哲もないレシートだ。景虎は抱き枕を傍らに置くと、それを受け取り首を傾げた。 「そっちじゃなくて……ウラ」  言われるままに紙を返すと、ボールペンで急いで書きなぐったような文字の列が出てきた。 『一日なんでも言うこときく券』  庄助の筆跡だった。紙からはみ出そうな、元気な文字が踊っている。余ったスペースに小さく猫のようなイラストがあり、そこにフキダシでおめでとうと書かれていた。 「これは……?」 「あっ、ち、ちゃうねん! 逆に! 逆にそういうのもええかなって! だってほら……ホンマに、何をプレゼントしたらええかわからんかったから、一応な」  さっきドンキで見つけたような、専用のチケットを買ってまで渡すのは、なんだか必死みたいで照れくさかった。だから、あたかもついでのようにレシートの裏に書いたのだ。  庄助とのセックスが好きで、一旦始まってしまうと寝食を忘れて没頭するような男に、そのような券を渡すというのはまるで自殺行為のようだ。  が、これでも庄助は一応あざとく考えてはいた。  例えば自分がもし好きな女の子に、一日だけなんでも言うこと聞くよ、と言われたら?  もちろんいやらしいことはしたい。  けれど、今すぐ胸を揉ませてくれとは普通は言わないだろう。身体だけが目的だと思われたくないし、なんでも言うことを聞いてくれるのだと思うと、逆に気持ちに余裕が出るはずだ。  変態ヤクザといえど人の子。  愛おしい人間が自分に、権限全てを委ねてくる状況で、いくらなんでも好き放題の無体を働いたりはしないだろう。  景虎は、好きな人間とどういうことをしたいんだろう。何をしているときが一番楽しいのだろうか。  わからないから、掴めないから、もっと知りたかった。  せやなぁ。俺やったら、一日ゆっくりデートがしたい。  せっかくやしネドミーランドがええな。一日中遊んで、パレード見て写真いっぱい撮って、美味しいものいっぱい食べてSNSにアップして、夜は豪華に公式ホテルに泊まるのええなぁ。  ……女の子とやで。  庄助は頭の中で、妄想相手に念押しをした。  このチケットはいわば、景虎の望みを知るためのものでもあった。だからこそあえて『なんでも』などと書いたのだ。 「ふふ……」  景虎はチケットの裏表を何度も確認し、どこかくすぐったそうに微笑んだ。庄助はそれを見て少し満足すると、膝立ちになってテーブルを覗き込んだ。小さなホールケーキにペティナイフを押し当てる。 「なぁ、ケーキ半分くらい食べられる? もっとちっちゃく切ったほうがええ? 余ったら――」  手首を強く掴まれて、握ったばかりのナイフがテーブルの上にぱたんと落ちた。  あっと声を出す間もなく、庄助は後ろから抱きしめられてしまった。 「……ぉ……っい?」 「もう今から有効なのか? さっきの券は」 「いやっそれは……ひぎゃ!」  景虎の指が、服の裾から侵入して素肌に触れた。するするとシャツを捲り上げながら胸元に上ってこようとする手を、庄助は掴む。 「嘘やん!」 「何がだ」 「やらしいことする気かっ?」 「そうだが」 「信っじられへん! 最低や〜!」  強引に突破してきた手のひらに胸を揉まれながら、庄助は目を剥いて叫んだ。 「何でだ」 「だって……だって、せっかくなんでも言うこときくって言ってんのに、こんな……あっ」  舌が耳の穴にゆっくり入り込んできて、唾液の音に鳥肌が立つ。 「なんでもっていうのは、エロいこととは違うのか」 「やっ、そ……違わんけど!」 「だったら何がいけないんだ? そうだ、買ったはいいが過激すぎてお前が嫌がると思って、泣く泣く隠している色々な道具があるんだ。俺はな、庄助……こんな機会はなかなかないと思ってる」 「イヤーーーッ変態! そんなもん捨てろアホ! ちゃうやん、セックスなんかいつもしてるやんけ! せやのにお前はっ……」  じたばたと抵抗しているうちに、ぴたりと景虎の動きが止まった。  考え込むような沈黙の間も、すんすんと庄助のうなじの柔らかい匂いを嗅いでいる。 「……なるほど。よくわからんが、察しろ的な話だな?」  景虎はふむ、と唸ると今度は庄助をフロアのラグの上に押し倒した。あまりに容易く組み敷かれてしまい、庄助は呆気に取られた。 「……ほんとにお前は、自分勝手なやつだ」 「なにがや! はなせスケベジジイっ!」 「俺には、気持ちを言葉にしろとか言うくせに。庄助が何も言わないのはズルいだろ? 違うか?」 「それは……」  顔に触れてくる右手のひらに、先月の傷跡が蚯蚓(みみず)のように残っている。まだ塞がって間もなく、ふくれて盛り上がったそこに、庄助は自分の頬をそっと乗せた。 「教えてくれ。こういうとき、何ていうのが正解なんだ。庄助はどうしたいんだ?」 「じ、自分で考えろ」 「“言うこと”聞くんだろ? 教えてくれよ。それともこのまま、朝まで犯しまくってやろうか?」  シャツを捲られて、腹が露わになる。臍をくすぐり脇腹を撫で上げる。それだけで、あの淫らな、“始まってしまう”気配に、庄助はまたしても呑まれそうになる。 「やっ、ちょっ……! わかった、待て! で、デート! デートしたいとか、なんかあるやろ!」 「ほう」  意地悪く吊り上がった唇が憎らしい。庄助は後悔したが、もう遅かった。 「庄助は俺と、デートがしたいんだな?」 「ちちちちがう! ものの例えや!」  景虎のことを知りたかったのに、なぜか庄助が恥ずかしいことを白状させられている。  目を逸らすなとばかりに顎を持ち上げられ、そのまま唇に軽く触れるキスをされた。  投げ出されていた庄助の足が、ぴくんと跳ねた。ラグの毛足が肌に触れて、くすぐったい。 「朝になったら、庄助の行きたいところに行こうか。どこだ? 釣りか? 動物園か? アルパカカフェか?」  嬉しいのかなんなのか、景虎の声色はいつになく優しい。 「行きたないわ、アホ死ね……」 「よし、店が開くまで抱く」  そう言っていそいそと自分のスウェットを脱ごうとするのを、抱きつくように全力で阻止する。 「わーっ待て待てっ! 足腰立たんようになる! やめろ! せめて先にケーキを食え!」  男同士の家に連れてこられたと思ったら、箱から出され外気に晒され、茶番を見せつけられた哀れなケーキが、テーブルの上で可憐に震えている。  二人は縺れるように身体を起こして、今度こそそれを食べるべく、ナイフを刺し入れた。  慌ただしい一日だった。次の景虎の誕生日は、もっと段取り良くやろう。  ケーキを口に運びながら、庄助は自然にそう考えている自分に気づき、驚いた。 「ありがとう、庄助。好きだ」  あまりに何度も景虎がそう言うので、生クリームの舌に絡むようなしつこい甘さも相まって、庄助はとうとう、知ってる、聞き飽きた! と叫んだ。  庄助が着ているロイヤルブルーのシャツは、結局脱がされてしまう。  景虎に貰ったそれをそこら辺に脱ぎ捨ててシワになるのが嫌で、庄助は洗濯かごまで這っていく。その背中に歯型をたくさんつけられた。  二人は朝まで抱き合う。明け始める空と体液のどちらもが白い。  まごうことなきホワイトデーだったと、庄助はようやく、明け方に意識を手放した。

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