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第二幕 1.ハッピーさんとワナビーくん①

 大きな窓の向こう、ライトアップされた柳が、風に吹かれて揺れている。  隣には花をとうに落とした桜の木が、寄り添うように立っている。  夜の薄ら闇に浮かぶ二対の大樹のシルエットは、人を飲み込む怪物のようにも見える。  都会にこんな場所があるなんて知らなかった。  早坂庄助(はやさか しょうすけ)の猫のような丸い瞳に、ガラス越しの日本風の庭園の風景が反射している。  ふわりと炊きものの醤油の香りがしたので振り返ると、着物姿の中年女性が、黒い漆器の椀を座敷に並べ終わったところだった。  女性は一礼すると、個室の襖を音もなくゆっくりと閉めた。 「よォ、酒が進んでねェんじゃねえか」  庄助の斜交いに胡座をかいた、中老の男が薄く笑った。白髪の混じった頭をオールバックに撫でつけた、痩せた男だ。 「い、いえ! 飲んでます」  庄助は慌てて、自分の手元に置かれた冷酒のグラスを手に取ると、一気に流し込んだ。  濃い発酵の香りと、芳醇なアルコールの匂いが鼻に抜けた一瞬のあと、胃の腑を焼くような熱さが食道まで上ってきて、庄助は()せた。 「ははっ、日本酒は苦手かい?」 「そんなことは……っ」  咳き込みながら涙目で、庄助は男の顔を見る。彼の落ち窪んだ眼窩には、柔和そうに下がった目尻が見えるが、その奥の黒い眼は、洞穴の中の獰猛な羆のように鈍く光っている。 「親父。あまり庄助をからかわないでください」  着慣れないスーツの背中を、そっと撫でる大きな手がある。  やっと咳が止まった庄助は、ちらりと自分の隣を見やる。相変わらず、嫌味なほどに整った、冷たい美貌がそこにある。背にじわりと、遠藤景虎(えんどう かげとら)の手のひらの熱が伝わってくる。 「けっ、甘やかしてやがンなァ」  親父と呼ばれた老人は、肩を竦めた。景虎の親代わりかつ織原組の組長、矢野耀司(やの ようじ)は、自らのグラスをくいっと持ち上げて見せると、ちぴりとそれに口をつけた。 「仔猿ちゃん、どうだいうちの息子は。無愛想だが、悪いやつじゃないだろ」 「あっ、はい! カゲ、とらくんっ! いや、景虎さんには、いつもよくしていただいて……」  仔猿ちゃんなどと呼ばれても、怒る素振りを一切見せずにヘラヘラと笑う。本当は「あんたの息子さんにめちゃくちゃされてるんですけど」とでも言いたかったが、出世を諦めたくはない庄助は、ニコニコと笑ってみせた。  景虎は、庄助に惚れている。  好いている、愛おしいと思っている、性的に見ている。言い方はどうあれ、つまりそういうことだ。  ヤクザの弟分、部屋住みの立場である庄助を、愛という大義名分のもとに手籠めにしている。と聞くと、立場を利用して性的関係を持つなんて、なんて酷い男だろうか、この人間の屑! と思うだろうが、普段の二人の関係はほぼ対等だと言える。  行為の時は身体の大きな景虎が圧倒的に優位だが、裏社会以外の世間に疎い景虎に、図々しいまでに元気な庄助が、口やかましくツッコミを入れているような、謎のパワーバランスで二人の関係は()っている。  もっとも、ヤクザである景虎はどちらかというと人間の屑で間違いはない。初回の強引な性行為、有り体にいえば強姦がなければ、今の関係はなかったともいえる。 「仔猿ちゃんが景虎の友達になってくれて、おれァ嬉しいよ。ウチの業界はもう、なり手がだいぶ少ないからなァ。あんたみたいな若いのは今はみんな、組織に入りたがらんからよ」  友達。はたして自分たちは友達なのだろうか。内心疑問に思う。  そもそも庄助は東京にやってきた当初より、矢野に『同年代だから景虎の友達になってやってほしい』と言われている。仲は悪くないと思うが、友達かと言われるとわからないし、ましてや恋人でもない。  もし自分たちの爛れた関係がうっかりバレてしまったら、ウチの大事な息子をそそのかしやがって、この女狐! みたいに怒られたり埋められたりしないだろうかと、庄助は人知れず怯えている。  矢野が漆器の蓋をぱかっと開けると、中から丸い海老の真薯(しんじょ)が出てきた。飾り切りの絹さやの乗ったまま二つに割り、口に運ぶ。庄助も慌ててそれに倣う。真薯という食べ物のことは知らないなりに、なんかわからんけどあったかくて、ふわふわで美味しいと思った。  ほどなくしてまた冷酒が運ばれてくる。庄助は身を乗り出して、矢野に酌をしようとしたところを、手で制されて逆に自分のグラスに注がれてしまった。  酒を飲むのは好きだが、いかんせん子供舌の庄助は、ビールかサワーか甘いカクテルしか普段は飲まない。  日本酒の鼻に抜ける匂いが苦手だと思いながらも、注がれた酒を放置するわけにもいかず、矢野にお礼を言うと、覚悟を決めて飲み干した。  突き抜ける独特な味と香りに身震いをしていると、またぞろ座敷を仕切る襖が開いて、今度は見知った男が入ってきた。

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