112 / 168

第二幕 7.ラッコですら石に執着するのに③

「でも……なんかできることないんかな」 「ない」  景虎が切り捨てると、庄助はヨーグルトのスプーンを咥えて、ふて腐れた顔をした。  きっと“優しい”庄助には耐えられない。それか、無理に耐えようとして己を歪に変容させてしまうに違いない。  普通の人間が指の先まで、倫理の真逆、すなわち悪に染まるということは、生半可なことではない。  痛みと諦めと疎外感を毎日のように交互に噛み締めて、それに慣れて何も感じないようにならなければいけない。  身を灼き溶かすほどの変容の痛痒を、忘我と自責の繰り返しを、庄助には味わわせたくなかった。  景虎は、少し湿った指で庄助の頬に触れた。子供のようにきめ細かく柔らかい肌。見上げてくる茶色い瞳、小さな鼻、髪のにおい。  生まれて初めて、変わってほしくない、失いたくないものを傍に置いてしまったのだ。 「なぁ、俺は庄助のことが大事だ。だから……」  少しは言うことを聞いてくれ。景虎はそう言おうとした。 リビングのほうで、庄助のスマートフォンが鳴った。  ほぼ食べきったヨーグルトと銀のスプーンを流しの中に放り投げるように置き、慌ただしく景虎の身体の脇をすり抜ける。 「もしもし、あっ。はい」  テーブルの上に雑に投げ出していたそれに取り付くと、通話相手に見られているわけでもないのにピンと背筋を伸ばした。 「ええっ。えと、俺がですか? いえ……大丈夫です。はい……」  困ったような、キレの悪い返事をしている。いい話ではなさそうだ。景虎が電気ケトルを傾けて沸いた湯をカップに注ぐと、安っぽいコーヒーの匂いが漂った。 「ちょっと、出てくる」  通話を終えた庄助は、またシンクのところに戻ってくると、ヨーグルトのカップをあらためてゴミ箱に捨てた。 「向田か?」 「うん、ヒカリちゃん……向田さんの彼女の仕事、手伝ってこいって言われた」 「どうやって。ホテルにでもついていくのか」 「……公園で、立ちんぼしてるはずやからって。客が払った金、回収してこいって」  自分のことでもないのに、庄助は悲しそうだった。  だがそれは、まったくの綺麗事だと思う。キャバクラの女にデレデレし、風俗で抜いてもらいたいとのたまう庄助が、売春婦を憐れむのはお門違いだと、景虎はよほど言いたかった。が、面倒くさいから言うのをやめた。  その代わりに、手首を掴んで引き寄せる。 「行くなと言ったらどうするんだ?」 「あ、わ……っ」  腰に手を回して、頬に口づける。いきなりのことに、庄助は大きな目をさらに見開いた。

ともだちにシェアしよう!