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第二幕 13.淀みに浮かぶうたかたは②

「勿体ないお言葉です」  景虎は、手渡されたもう一本のオレンジジュースに口をつけた。談話室は仕切りがなく、向こう側の廊下を、職員や利用者がバタバタと歩き回っている声や音が聞こえる。  病院や介護施設は、薬や排泄物の混じった、独特の匂いがする。老いによる死の匂いは穏やかだ。昔殺してしまったあの大きなアフガンハウンドのことを、景虎はぼんやりと思い出していた。 「……本当のことを言うと、アリマさんに悪の片棒を担がせてしまったみたいで、罪悪感があります」 「悪の片棒ってことは、遠藤さんは悪い人なの?」 「悪い人……? いや、でも……ヤクザは人間じゃありませんから」  自虐的に言い捨てる景虎の言葉を聞いたアリマは、口の端に括弧を閉じるように刻まれた皺を深くして笑った。 「……ごめんなさい、偉そうなこと言うわ。職業なんて関係ない。あなたはちゃんと人間なんだから、人間であることから逃げないで。庄助ちゃんのことが大事なら」  景虎は、目を丸くした。 「……はい、申し訳ありません」  母が死んでしまったとき、強者が弱者を食ったあとのその残骸こそが自分なのだと、景虎は思った。  誰に言われるまでもなくわかっていたつもりだ、自分たちはヒトでなく、けだものなのだと。  なのに、そうではないと目の前の老人は言う。 「ふふ。あたしで良かったら、いくらでも共犯になるわよ。いくら莫迦で弱くて善良に見えても、年寄りはね、そこらの若い子なんかよりずっと悪いことしてるのよぉ」  無害な老人だと思っていたアリマがそんな事を言うので、景虎は更に驚いた。  ふと、自らの手を見る。アリマと質感の全然違う5本の若い指先は、思い通りに器用に動く。  それは獣ではなく、人間という動物にほかならない証左だった。 「遠藤さんは、ラッコが好きなの?」  長い沈黙の後、アリマは切り出した。  窓際のカーテンは変わらず、エアコンの風で柔らかそうにふわふわと揺れている。 「はい。動物が好きです」 「そう。庄助ちゃんが、あれを……ラッコのキーホルダー、遠藤さんが喜ぶって言ってたから」  冷たくて甘酸っぱいオレンジの味が、景虎の喉を通ってゆく。ジュースなんて飲んだのは、子供の時以来かもしれない。    「庄助が……? そうですか」  庄助が、自分のいないところで自分の話をしている。景虎は、胸の内側を優しく引っかかれるような、なんともいえない不思議な心持ちになった。 「遠藤さんにも、お揃いで作っていいかしら」 「俺にですか? それは……ありがたいですが」 「だったらまた出来上がり次第、庄助ちゃんに渡しておくわねぇ。……心配しなくても大丈夫よ、じーぴーえす? とやらは、仕込まないから。ね、色男さん?」  いたずらっぽく笑ったアリマの、細い髪を後ろでまとめたべっ甲のバレッタが、陽の光に透けて輝いてキラキラしている。すごくキレイだった。  蒸し暑くて、死の匂いがして、静かで穏やかで、そんな中で飲むオレンジジュースは、妙に美味かった。

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