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第二幕 13.淀みに浮かぶうたかたは③

   世界は前から、こんなに自分に優しかっただろうか。  買い出しをしてから事務所へ戻るまでの道のり、景虎はずっと考えていた。  庄助と出会ってから、自分が変わったのは景虎自身も認めるところではある。  自分がこんなに嫉妬深くて、怒りをコントロールできないと知らなかったし、誰かを大事に思う気持ちがあることも知らなかった。  所謂、『自分が変われば、世界は変わる』というやつなのだろうか。  くだらない、あほらしい、どう料理しても陳腐な言葉だ。  けれど、間違ってはいないのかもしれない。  両手いっぱいにビニール袋を下げて、事務所ビルの前の狭い道に立つ。  建物の隙間から、切り取られたような空を見上げる。雨雲はまだ来ておらず、憎らしいほどギラギラした夏の太陽が、殺意を持ってアスファルトを焼いているばかりだ。  今日ばかりは天気予報が外れるといいのに。  景虎は思った。 「カゲ~~!」  頭の上から声がする。  弾むように明るくてうるさい、聞き慣れた声が。  3階の事務所の窓から、庄助が顔を出していた。こちらに向かって手を振っている。やることなすこと子供のようで、呆れ返ってしまう。……呆れて、笑える。  黄色い頭が引っ込んだのを確かめてから、雑居ビルの自動ドアを抜けて、エレベーターのボタンを押す。  階段を駆け下りてくる軽やかな足音が聞こえた。  剥がれかけた踊り場のタイルを蹴る、履き古したスニーカー。待ちきれないとばかりに胸に飛び込んでくる柔らかい金色の髪からは、若い柑橘のような匂いがした。  庄助がそこにいるだけで、景虎の頬は綻ぶ。 「へへ、カゲのこと待っとった」  息を切らし、尖った犬歯を見せて笑う庄助の屈託の無さに、目眩のような幸せが止まらない。  「半分、持ったる」  そう言って、飲み物の入ったビニール袋を奪おうとする庄助を、ちょうど降りてきたエレベーターに押し込んだ。 「あ」  ドアが閉まる。両手を塞ぐ忌々しい買い物袋を地面に置いて、景虎は庄助を抱きしめた。 「ああもう……上に、着くまでやぞ」 「わかってるさ」  下唇に噛みつき、小さな前歯に舌を這わせる。舐めるだけのキスをすると、庄助はびくびくと震えた。  景虎は、自分が変わってしまったことを強く感じる。身体の中に、滾々(こんこん)と湧き出てくる愛しさや優しさの源泉があることを知らなかった。  きっともう戻れない、今までの自分には。  庄助に、出会ってしまった。  自分を取り巻く世界が、ただ忌むだけのものではないとわかってしまった。 「もーっ。やらしいねん、いちいち……」  顔を赤らめてまんざらでもなさそうなのに、身体を押し返してくるのがいじらしい。 「カゲは幸せものやな~、ホンマ」  その庄助の言葉だけで、全て報われてしまう。  今までやってきた悪事も間違いも、帳消しになった気がするくらいに。  母を亡くして、ヤクザになってしまったかわいそうな子供。過去の全てを打ち明けたわけではないし、打ち明ける予定もないが、何を知ったとしても庄助はきっと景虎を、そのような色眼鏡で見ないだろう。  それだけで得難い、特別な存在だ。   「ああ、ずっと言ってるだろ。俺は幸せなんだ」  景虎は庄助の頬に、名残惜しそうに鼻を押し付けてから、そっと体を離した。  離れる際に腰を撫でると、庄助のジーンズの尻のポケットに、新品のスマホとラッコのキーホルダーが入っているのがわかった。  悲しいほどに俺は、ずるい“人間”だ。  景虎は庄助に微笑みかけると、前を向いた。

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