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【番外編】スピカの後味②

「エビ、いらんの?」  丸い瞳が、ウーロン茶に口をつける景虎を覗き込む。ちょうだい! と顔に書いて隠さない庄助の口に、箸で海老を押し込んでやった。 「ふぉ、やったぁ。じゃあ俺からも、あ~ん」  庄助は、サラダの鉢に残っていたミニトマトを指でつまみ上げて、景虎の唇に押し当てた。  トマトが嫌いだから押し付けてきているのはわかっている。わかっていてなお、嬉しかった。血色の良い爪ごとかじりつきたかったが、食事の途中なので我慢した。景虎はこれほど、自分の社会性を呪ったことはない。  糖度の高いフルーツトマトが、口の中でぷちんと弾ける。景虎は味音痴だが、だからこそ素材をそのまま焼いて提供してくれる鉄板焼にしてよかったと思った。  もちろん景虎とて、なにも自分で考えなかったわけではない。  庄助のいかにも憧れそうな、パーティーピープルが集い、映える写真を撮りまくるような飯屋には、ウニの乗った肉寿司だとかハムの乗ったメロンだとかそういった、景虎には味の想像ができないメニューが多かった。  誕生日のデートだからといって、自分が食ったことのないものを食わせるのも違う気がしていた。だから、海老なら海老、肉なら肉がメインディッシュで出てくる鉄板焼という提案はありがたかった。  さすが国枝、港区女子を騙して国外の売春組織に売り飛ばしているだけある。景虎は少し感動した。  隣を見ると、何も知らない顔をした生物が、今度はステーキに舌鼓を打っている。  ステーキにはワインが合うと聞くが、庄助も景虎もウーロン茶を飲んでいる。庄助いわく、酒を飲むと飯の味がようわからんようになる、らしい。  景虎は、庄助が自分と同じく馬鹿舌(というよりも子供舌)であることに安心する。米沢牛のシャトーブリアンにべちゃべちゃとソースを塗りたくっているのを見るとなぜか、いつまでもそうあってほしいと思ってしまう。  最後に記念日のデザートプレートが出てくる頃には、庄助は満腹になってしまったのか、胃の上を手のひらで撫でさすって大きく息をついた。 「あれ……?」  金箔をあしらったソルベにクレームブリュレ、フルーツとリコッタチーズがたっぷり乗っかったミニパンケーキ。装飾品のような盛り付けのそれらを乗せた白いプレートの下側、チョコレートの文字で『Happy Birthday』と書かれている。 「あ! せやった、誕生日やん俺」  庄助は今頃驚いた顔をした。 「今日は誕生日のお祝いをしようって言っただろう。忘れてたのか?」 「いやっ、なんか……海老が殺されたり肉が美味かったりして、びっくりして忘れてた」  庄助はグリースのついた髪を、ペタペタと撫でた。 「おめでとう」  耳の穴から入った低い声は、背筋を伝って降りて腰を撫でてゆくようだ。ズキンと刺すように、腹の奥が甘く痛む。景虎に触れられることにあまりにも慣れてしまった自分の身体にひるんで、言葉を紡げなくなる。  庄助は目を逸らして、ごく小さく「うん」と答えた。本当は、もっとうまく感謝を伝えたかったのに。  フォークでちぎったパンケーキの端を、誤魔化すように口に放り込んだ。甘くなくふんわりとした生地は、小さい頃に母親と食べた喫茶店のホットケーキとは別物だと庄助は思った。  よく考えたら。誕生日だから美味しい飯をご馳走すると言われてノコノコついてきたけれど、ここはホテルではないだろうか。しかも芸能人が泊まっていそうな。  よくある……のかは知らないが、売れっ子芸人や俳優は、こういうホテルで女の子を酔わせて部屋に連れ込んだりしていると聞く。  庄助は隣で微笑む景虎を、こっそり伺った。カタギになりきっているのか、刺青の見えないゆったりサイズのサマーニットに、テーパードパンツを履いている。身長があるというだけでなくシャンと伸びた背筋が、スタイルの良さを際立てている。  ……これでは景虎が普通の男前に見えてしまう。一緒に歩いていると、嫌でもわかる。景虎は目立つから、衆目を集めてしまうのだ。特に、女性からの熱いそれを。  こんなに変態やのに! みんな騙されてる! と、庄助はやきもきした。 「カゲ……こ、このあと……さ。どうしよ? あっ! ボーリングでもする!? ラウワン行く!?」 「部屋を取ってある。そこで飲み直さないか」  さも当然のように言う景虎に、とうとう出たね……と、庄助は頭の中で呟いた。  いくらなんでも、可愛くもない華やかでもない、しかも男で下っ端のチンピラ相手に、高級ホテルの部屋を押さえるなんて、気でも狂ってるのかと聞きたい。  ……気は狂ってたな、こいつの場合。  庄助は呆れたようにため息をつくと、窓の外を眺めた。ビジネス街の洗練された街並みが、四角く黄色い夜のしるべを無数に灯し始めている。  景虎の手が、ナイフを置いた庄助の手の甲をそっと包んだ。甘苦い砂糖のキャラメリゼが、奥歯の間で砂のような音を立てる。  暦の上では処暑を越え、もう白露に差し掛かろうとする折、夜中と朝方の寒さを乗り越える体温は、お互いに必要かもしれなかった。  庄助は窓の外を見たまま、景虎の指先を一度握った。

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