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第三幕 三、血濡れの親子箸①

「儂が知ってる麻婆豆腐ってのはよ、なんか甘酸っぱくてよ。最近流行ってるあの、痺れる辛さとかいうやつは、結局わけのわからん香辛料の匂いがいっぱいすンだろ。あれは邪道なわけだよ」  何事かをブツブツ言いながら、矢野はカニ玉をレンゲで取り分けている。黄金色の餡がもったりと、白いスープ皿に落ちた。 「いいか景虎、町中華ってなァ自由なんだ。定食の海老の唐揚げの横に、今思いついたから作りました、みたいな雑な卵だけのオムレツがバンッと置いてあってよォ、雑なもんだからそこから流れた汁で唐揚げの衣がベチャッとなっててよ……でもやけに美味い、そういうのが」 「親父、カニ玉こぼれてます」  長年の脂で粘ついたビニールのテーブルクロスに、玉子が落ちている。矢野は備え付けの紙ナフキンでそれを掬うように拭き取ると、少し照れくさそうに景虎を見た。 「憶えてるか? お前が裏の店に刺青彫りに通ってたとき、たまにここに寄って飯食ってたよな。聖のやつも一緒によ」  二人がいるのは、新横浜通りを外れた飲み屋街の、その中でもとりわけ細い路地にある、平成初期に取り残されたような寂れた町中華だ。  景虎たちの他に客はいない。  景虎が矢野に拾われた当初、織原組の事務所はこの近くにあった。厳しくなる暴対法の煽りを受け、堂々と看板を掲げることができなくなった織原組は本丸を縮小し木場に移転したが、この辺りは矢野にとって思い出深い土地なのだろう。 「ああ……なんとなく憶えてます」 「懐かしいよなァ。あの頃組にいたやつも、辞めたり死んだり服役したり、ウチもだいぶ変わっちまったァな……」  ()けた頬に餃子を詰めながら、矢野は呟いた。瓶ビールを手酌でちびりちびりとやっている様は、普通の侘しい老人のようだ。 「……少し庄助のことをお話したいのですが」  景虎が切り出すと、矢野はまるで子供のように口を尖らせた。 「お前は最近、二言目には仔猿ちゃんだよなァ」  不満そうに言う義理の父の顔を、景虎はまっすぐに見つめた。 「本当に庄助に織原の……ヤクザの仕事をさせる気なんですか?」 「ン……? そのへんは聖に一任してっけどよ。本人がやりたいってンなら、やらせてやりゃアいいじゃねえか」 「庄助はバカなんですよ!? 事務所に入って数ヶ月の間に、何回面倒事に巻き込まれたか……しかも、ほとんど自分から顔を突っ込んで。とてもヤクザとしてやっていけるとは思えません、俺は組のために言ってるんです」 「……なるほどなァ。まァ飯食えよ、お前も。あったかいうちに、な?」  矢野は景虎の取り皿に、適当に料理を取り分けた。雑すぎて、餃子の上にカニ玉が盛大に乗っている。残飯のようなそれを、景虎はじっとりと睨みつけた。 「仔猿ちゃんは、名目は聖ンとこの従業員なんだろ? だったらまずは、そっち通すのがスジだろ」 「国枝さんにはもう何度も進言してます。庄助はバカで無謀だから……危険なことになる前に正業の、ユニバーサルインテリアの仕事をさせたいって。でも結局あの人は面白がってるだけだ、信頼できない。だから……」 「だからてめェの兄貴すっ飛ばして、直接パパにお願いしてるってのかい?」  じわりと底冷えするような殺気を感じて、景虎は素早く頭を上げた。咄嗟に引こうとしたテーブルの上の左手の甲を、矢野の使っていた利休箸の先端が捉えた。 「ぐ……!」  皮膚を易易と貫いた箸は、手の腱の隙間を縫って筋肉に突き刺さる。景虎は呻いた。 「えれぇ甘えん坊になったもんだな、え? 景虎ァ。儂が飯食えっつってンのに、ペチャクチャ喋ってよォ。冷めるだろ、飯が」  矢野は、景虎の手の甲に垂直に突き立てた箸に力を込めた。  怒っているはずの矢野からは、感情が全く見えない。人を襲っている最中のグリズリーでも、もうちょっと何かしら思うところがあるだろうというくらいに、何も映さない真っ黒な目をしている。  先ほどの呑気な老人めいた彼からは想像もできないほど凍てついた表情に、さすがの景虎も肝を冷やした。 「……っ、申し訳ありません」  膂力(りょりょく)では負けるはずのない目の前の小柄な老人がただ恐ろしく、手も足も出ない。矢野は、景虎が純粋に恐れを抱く数少ない人間の一人だった

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