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第三幕 三、血濡れの親子箸②
ただならぬ雰囲気を察して、店の主人が厨房から飛んできた。
「大丈夫? 困るよ園長さん、喧嘩しないでよ! ティッシュいる?」
脂で黒ずんだコックコートでベタベタと手を拭いてから、小太りの店主はキッチンペーパーの箱を景虎に差し出してきた。園長というのは矢野のことだ。随分前に矢野が自分の事を動物園の園長だと言ったのを、それ以来店主が面白がって呼んでいる。
「イーさん、すまん。新しい割り箸と、あとビールのおかわりと酢豚を持ってきてくれ。景虎も食べるだろ?」
矢野は何事もなかったかのように、店主と景虎に笑いかけた。箸を抜き去ると、手の甲に空いた小さな穴から、湧き水のように赤い血が溢れてくる。かろうじて貫通はしていないようだ。
景虎はゴワゴワとしたキッチンペーパーで傷を圧迫しながら、
「お騒がせしてすみません、あの……消毒液と白いご飯をください」
と苦しげに言った。店主は肩を竦めると、また店の奥に消えていった。
粗い紙の繊維に、真っ赤な血が次々と染み込んでゆく。
紙を何枚も使ってしつこく圧迫し、ようやく出血がおさまってきたところで、景虎は今度こそ黙ってカニ玉まみれの餃子を口に入れた。
「なぁ景虎。儂が言いてェのは、スジは通しなさい、そんで食べ物はあったかいうちに食べなさいってことよ」
「はい……すみませんでした」
「……お前自身の望みを聞いてやりてェんだよ、儂ァ。聖がどう言ったとか組のためとか、そんなおためごかしじゃなくな」
人の手に穴を開けておいて何言ってんだ。そっちのほうがおためごかしだろ。景虎は言葉ごと、カニ玉を飲み込んだ。
店主はすぐさま瓶ビールと白飯、それに消毒液を運んできて、入れ替わりに血のついたキッチンペーパーを平気な顔で引き上げていった。飲み屋街という土地柄なのか、こういったことには慣れているのかもしれない。
「ただまあ、お前がそこまで執心するってなァ、仔猿ちゃんはよっぽどいい子なんだろうな。萬城ンとこのボンボンには感謝しにゃあならん」
萬城という名前を聞いて、今度は景虎に殺気が滲む。ぐっと握ってしまった拳の傷から、血が吹き出した。
しかし矢野の言う通り、萬城静流がいなければ、庄助に出会うことはなかったのだ。そう思うと、ほんの少しだけ心穏やかに……は、なれなかった。
嫉妬と不安でざわつく腹の中を埋め尽くすみたいに、景虎はガツガツとレンゲを使って白飯をかっ込んだ。
「萬城とは、どういうご関係で?」
「タピオカが流行ったときあンだろ。あいつの親父ンとこの会社が東京に出店する土地の確保に、ちょっと口利きしてやったんさ」
「なるほど……」
刺されたことも忘れ、投げやりに返事をした。根っからのお坊ちゃまというわけか。景虎は苛々した。
自分から聞いたことだが、あの男単体にはまったく興味が湧かない。タピオカだろうがキャッサバだろうが、どうでもよかった。
昨日、庄助は怒って泣いていた。
カゲなんかだいっきらいや。そう何度も言っていた。こちらも腹が立って、いつもより酷くしてしまったと景虎は自覚している。
しかし、刺青を彫らせるなんてくだらない約束はどうしても納得できない。庄助の肌を、自分と同じ落伍者の色に染めるのは嫌だった。腑に落としたくても、飲み込めないことだってある。
庄助の性格上、刺青なんて入れたら、バカみたいに見せびらかして回るに違いない。一丁前に見栄っ張りだから、そのうち退くに退けなくなってどんどん極道の深みにはまるだろう。
考えていると、鬱々たる気持ちが胸の下の方にわだかまってきて気分が悪くなってきたので、景虎は話を変えた。
「ところで……誠凰会 は何を考えているんでしょうか。慎重派の久原さんが仕掛けようとするなんて、よっぽどのことだ」
久原は、矢野と年齢も背格好もそう変わらない。違うのは非常に慎重だということだが、だからこそこの世界で生き残っている。ヤクザは勇敢と蛮勇を履き違えた人間、つまり庄助のような人間から先に死んでゆく。
「……そうだな」
矢野は何も言わず、脂で烟 るような窓の外を見ながらグラスに口をつけている。
夕暮れに染まる外の通りは、狭くて人気が少ない。人の通れないような細い裏路地がそこかしこに網のように張り巡らされていて、そのほぼいずれも酒瓶やゴミ箱に占拠されている。
「お待たせしました、これ酢豚ね」
追加の皿が運ばれてきて、ようやく矢野は正面を向いた。
「なあ景虎。この先、お前にゃァ辛い仕事が続くかもしれん」
矢野の真っ黒で光を帯びていない瞳は、縁だけが加齢でうっすらと青くなっている。
景虎の背にじわりと汗が滲んだ。
「親父……?」
「儂ァ悪い親だよ。せっかくお前に友達ができたのにな。苦労ばっかりかけてごめんなァ」
ごそごそと音がして、矢野がシャツの腹の部分から黒い塊を取り出したのが見えた。
それはサイレンサーのついたマカロフだった。
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