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第三幕 四、ミミックは真夏に生まれた⑤
ベルガモットの優しい匂いがする。
受付カウンターの傍らに置かれたアロマディフューザーから、コポコポと水の揺れる音がしている。
窓の外を眺めながら、庄助は高校時代のことを思い返していた。
ボディアートのスタジオなんていうから、もっと暗くていかつくて怖い場所をイメージしていた。
けれど、庄助が恐る恐る足を踏み入れた道玄坂の雑居ビル二階の『シンギング・フィッシュ』はまるで女性向け、いわばネイルサロンのように清潔で明るく開放的な空間だった。
入り口で、真っ白なふわふわのマルチーズのようなボアスリッパに履き替えると、ソファに掛けるように促された。ダークブラウンのフレームに白いクッションのラタン製のソファは座り心地が良かった。
都会らしくこじんまりとした店内は、少しでも広く見せるためなのか天井が高くなっており、シーリングファンがくるくると回っていた。全体的にリゾートのような雰囲気で統一されている。
「へえ。その子、どんなタトゥーやった?」
店の片付けをしている静流をよそに、庄助は室内を珍しそうに見回している。受け取ったジュースのパックは、喉が渇いていた庄助によって一瞬で空になった。
「左の手首にウサギの……水色で、こんな前歯で笑ってるやつ」
口の前で指を二本下向きにしてげっ歯類のジェスチャーを見せる庄助に、向かいに座る静流は苦笑いをした。
「水色のウサギか~。憶えてるような……どうやろ、曖昧やな。自分の作品のことすぐ忘れるから、オレ」
ヒカリの手首の傷のことを言えば思い出せるかと考えたが、それは伏せておいた。
今日は午後のカウンセリングが二件だけで、もともと早仕舞いにする予定だったらしい。静流はどこか楽しげに、コードレス掃除機でカーペットを雑に撫でている。
壁のそこここに大小の抽象画が掛かっているが、庄助にはその作者もタイトルのいずれもわからなかった。
けれど生き馬の目を抜く都会に出てきて、自分だけの城を持つようになった静流のことを、改めてかっこいいと思った。
「ていうか知らんかったほんまに。兄ちゃんいつの間に有名人になっとったん」
少し調べたが、静流はTANN という名前でアーティスト活動を行っているらしい。
海外進出を果たし、国内外を問わずインスタグラムやXのフォロワーも多いようだ。まさかそんなすごいことになっているとは思わなかった。
名前の由来は何? と聞くと静流は、塩タンが好きだから、と答えた。妙に適当なのも彼らしいと、庄助は思う。
「ああ……なんか恋愛リアリティショー? ってのに出たからかな。ついこの間までそれの撮影で海外に行っとった。だから、庄助になかなか連絡できんかってん」
「はわ~すげえ」
まるで芸能人と喋っているみたいで現実味がない。
確かに静流はこの数年で随分と垢抜けた。大阪にいた頃もかっこよかったけれど、今は身につけている物もヘアスタイルもなにもかも、比べ物にならないくらい洗練されている。庄助はブランド物に詳しくはなかったが、それでもわかった。
静流の話し言葉に標準語が混ざっていることにしろ、少し会わないうちに東京に兄ちゃんを盗られてしまったようで寂しかった。
「もう店片付くし飯行こや。昨日はあんまり話せんかったし」
「ええけど、忙しくないん?」
「大丈夫。番組見てカウンセの予約取ってきて、俺と喋るだけ喋って結局冷やかしみたいなアホ女ばっかりで、ええ加減飽き飽きしとったとこやし」
静流は伸びをしながら毒を吐いた。さっきヒカリに見せてもらったインタビューと真逆のことを言っている。
「おお……そんなん言うてええん?」
「ええやろ、ホンマのことやし。あんなほとんどヤラセの恋愛番組見て、ときめくとかリアルとか、何やギャーギャー言うてるのアホしかおらんやろ。しょーもない」
静流は外面はキラキラした王子様そのものだが、昔から親や友達にも見せない顔を庄助だけには見せてくれていた。
変わらない性悪さに、まだ自分は特別なのかと思わず安心してしまう。
「へへ、相変わらず性格悪~。兄ちゃんどうせ、まだちゃんとした彼女作ってへんねやろ?」
庄助がからかうと、静流は否定はせずに肩をすくめた。空っぽになったジュースのパックを庄助から奪うと、煽るような口調で球を打ち返した。
「庄助ちゃんこそどうなんですかぁ? 念願のヤクザになって、彼女できまちたかぁ?」
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