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第三幕 九、それぞれの戦い、それぞれの我慢①
ロックグラスに注ぐ酒の量は、ツーフィンガーが目安だ。
客側に見えるように、ボトルのラベルは上を向ける。ワキを締めて脚を揃えて、美しい姿勢で、注いだあとは静かにおしぼりで結露を拭く。もちろんグラスの飲み口には触れないで、コースターが濡れていたらボーイに取り替えを頼む。
酒を注ぐだけなのに気にすることが多すぎる。アホちゃうか。そう思いながら、琥珀色のウイスキーを慎重に氷の上に注いでゆく。
男としてキャバクラは大好きだが、女の子たちがこんなに諸々のことに気を遣って仕事をしていたと思うと、庄助はなんだかしょんぼりしてしまう。
当たり前だが、楽しんでいるのは客だけなのだ。客のグラスの酒の残量や次のボトルのこと、指名や他の客とのバッティングのことなどを常に考えているのだと思うと、彼女たちは楽しげに話を聞いて心から笑っているふりをして、ずっと上の空なのだということが嫌でもわかる。
知りたくなかったな……。マドラーを氷とグラスの間に刺し、ガラガラと音を立てて混ぜ溶かしながら、庄助は悲しみに暮れていた。
矢野から景虎の過去のことを聞いてから、庄助はずっと思っていた。景虎には、薬物に関する仕事をやってほしくない。
織原組では違法薬物の取り引きは使うのも売るのも法度になっていて、バレれば即破門だと聞いた。とはいえ、関わることはゼロではないだろう。
景虎はヤクザの仕事をずっとしてきたわけであるし、きっと少し前まで素人だった自分なんかよりドラッグやその売買を見慣れていて、なんとも思っていないかもしれない。余計な心配かもしれない。
それでもきっと大なり小なり、母親のことを思い出すに違いない。自分ならそうだと庄助は思ったのだ。
だから国枝や向田にも「今回はひとりで頑張りたい」と言った。だから恥ずかしい格好をさせられてもこうして我慢している。
それに何よりこれは、国枝から直に命を受けた“極秘任務”なのだ。
「“しょこらちゃん”だっけ? 飲み物好きなの頼んでいいよ」
ゆったりとソファに腰かけるタニガワという五十代のメガネの男は、大リーガーのように体格が大きく焼けた肌をしている。ヤクザとしての風格は十分だが、物腰は存外柔らかかった。
「あっはい……じゃあ俺、いやウチ、ブランデーは飲めないからぁ。甘いお酒がいいなっ」
半個室の壁紙は、薄いピンク地にバカみたいに赤いハートの総柄で、そこにいかにも慣れていない人間が作ったであろう下手くそなデザインの、飲み物や軽食のメニューポップが貼られている。
自分が客だった時に、嬉しくなるような接客をやるのは基本だ。向田はそう言った。自分の好きなタイプの女を演じればいいのだとも。
まともに客と向き合っていたら疲弊してしまうから、本当の自分の上にキャラクターの仮面を被るのだという。
向田はクソ野郎だが、夜の仕事をずっと取り仕切ってきただけはあって、客にウケるやり方やかわし方のアドバイスは的確だった。ほんの小一時間レクチャーされただけだが、単純な庄助は熱っぽく語る彼の言葉に思わず納得してしまった。
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