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第三幕 九、それぞれの戦い、それぞれの我慢④

 ずっと昔、まだ景虎が十代前半だった頃の国枝は、まるで別世界の人間のように強く、逞しく見えたものだった。  矢野の、兄弟の絆がどうこうという思い付きで二人揃って銭湯に行かされては、しょっちゅう背中の流し合いをした。国枝の締まった背中には刺青はなく、変わりにいくつかの火傷の跡や塞がった古い切り傷などがあった。それについて景虎は何も聞かなかった。  しなやかな背中の筋肉に、泡のついたスポンジをよく滑らせていた。大人の男の背は大きく見えたが、今の自分はとっくにそれを凌駕するほどの体格と筋肉量を持ってしまった。 「……そっちの肩、癖になってすぐ外れちゃうから、優しくしてよね」  二十一時を回った事務所には誰もいない。国枝の両肩を掴んで、至近距離で浅く息を継ぐ景虎の目だけが赤く、爛々と光っていた。 「信じられません。庄助に裏の仕事を押し付けるなんて」  真剣な声音に国枝がせせら笑うと、筋張った二の腕が景虎の身体の下でつられて蠢いた。  大型の虎に殺意を持って睨まれても、力を抜いて一つの抵抗もしない。やる気のない国枝に毒気を抜かれた景虎は、失礼しましたと口だけで謝りながら、ゆっくりと身体を離した。  スーツの肩についた埃を数度手で払うと、国枝はわざとおどけてみせた。 「俺も信じられな~い。こんな幼稚園児みたいな情緒のやつと、何年もずっと仕事してたなんて」 「……庄助に何を吹き込んだんですか?」 「言ったでしょ、これは極秘任務だよ。教えられないな。心配ならお得意のGPSで追っかけたら?」 「危険です。この前の襲撃だって、結局殺し屋の雇い主は川濱組だった。こっちを狙ってるんですよ、確実に」 「あは、殺しもスキマ時間で依頼する時代なのかな? 拷問に対してはめちゃくちゃ素人だったじゃない」  矢野たちを襲撃した男は、腕や大腿部を細い針金で少しずつ焼き焦がされてゆくのがよほど堪えたのか、一時間とたたず白状した。  川濱組の舎弟頭一派、つまりタニガワに雇われたのだと。他に知っていることはないかと、身体の様々なところを痛めつけてみたが、脱水からのショック症状でうわ言と糞を漏らしはじめたので、組の息のかかった病院に送った。今も治療を受けているはずで、残りの尋問は男の回復を待つ運びとなった。  誠凰会のニヘイが遺していったアイパッドのデータはクラウド上には残っておらず、まだザイゼンが本体から少しずつ吸い出したり解析したりして格闘している。 「庄助だって、得体の知れない男たちに追いかけられたばかりなんですよ、それなのに……」  怒りを押さえつけて震える景虎の低い声を聞いて、国枝は肩をすくめた。細い身体を捩じるように身体を伸ばして、自分のデスクの上に軽く腰を掛ける。 「子供じゃないんだから、なんかあったら連絡してくるでしょ」 「裏の仕事は俺が全部やります、だから庄助には……」  膝を折って、景虎は国枝の前に跪いた。頭を垂れて、懇願する。 「お前は色んな人間に顔が割れてんだから。庄助(エサ)の周りをうろついたら、かかる魚もかからないよ。……あのさ、景虎」  国枝は真剣な目をした。

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