227 / 381

第三幕 九、それぞれの戦い、それぞれの我慢⑥

「殺した人間の顔や名前どころか、年齢や性別や立場も歯牙にかけない。景虎のそういうとこ、俺はヤクザとして評価してんだよ」 「ありがとうございます……殺しなら俺がこれからも……ぐうっ!」  長い小指が国枝の革靴の先に捉えられると、焚き火が爆ぜるような小気味のいい音がした。  分離した腱に折れてしまった骨が刺さる、灼熱のような痛みが景虎の脳に伝わった。 「がっ、あ……!」  瞬時に脂汗が顔や背中から吹き出た。根っこから、あり得ない方向に折れ曲がった小指の背が手の甲にくっついて、まるでおもちゃの人形のようだ。 「これはさっきのお返し。ねえ景虎」  痛みに目を白黒させる景虎の脇へしゃがみ、前髪をつかんで顔を上げさせた。 「俺の言う事聞かないやつに、殺しなんて重大なこと頼めるわけないだろ? ちょうどいま怪我しちゃったことだし、人のバラシ方もついでに庄助に教えてみよっか。どんな顔するか楽し……」 「国枝さんっ!」  俯きながら景虎は吠えた。普段滅多に出さない大声が、情けなく裏返る。いつもよりもっと蒼白になった顔、鼻先から汗がポタポタと落ちて床に溜まる。色を失い始めた唇が震えて動いた。 「コ、殺しだけはあいつには……。わかりました、ちゃんと、言う事聞きます。俺が……間違ってました」  国枝は目を細めた。庄助の名前を出した途端こうなってしまうことを、敵対する人間たちに悟られてはいけない。織原の虎の泣きどころは、必ず秘密にしておかなければいけないのだ。  庄助を美人局に遣わせたのは、そういう狙いも半分あった。庄助を駒にすることを景虎に少しでも慣れさせる。そうでないと、これは今後抗争になったときに、必ずネックになってくる問題だ。  まあもう半分はただ単にイチャイチャしててムカつくから、という悪意なのだが。 「わかってくれた? 言う事聞かないと、組長付きからコピー機のトナー交換係に降格だよ~」  にっこりと別人のように笑うと、机の引き出しから鎮痛剤と水のペットボトルを取り出して、国枝自ら錠剤を景虎の口の中に入れてやった。骨折の痛みがこんなもので和らぐわけはないが、ほんの少し景虎がかわいそうに見えたので、おまじないのつもりで飲ませる。  水ごと薬の粒を飲み下す、逞しい首の中心で動く喉仏。出会った当初の少女と見紛うほどに線の細く、死んだような表情のかわいそうな景虎はもういない。  身体の大きな美青年に成長し庄助に出会い、感情を出すことが増えた弟分の、黒くて長い睫毛だけがただ昔と変わらなかった。  国枝が、汗で濡れた前髪をそっと掻き分けてやると、景虎は苦しそうに息を吐いた。 「庄助にだって、意地があるんだよ。あの子なりにちゃんとお前が大事なんだ。……俺の知ったこっちゃないんだけど、でもやっぱちょっとムカつくよ」  景虎は、わけがわからないと言いたそうに、逆光に浮く国枝の細いシルエットを見上げた。荒く上下する胸のポケットに病院代の札の束を入れると、国枝はタクシーを手配してやった。

ともだちにシェアしよう!