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第三幕【幕間】手折られるものたち

 台所のテーブルを拭いている母さんの、花柄のワンピースのスカートが揺れる。  うちは飯をあまり作らないし、そもそも母さんとあまり一緒に食事をすることもなかったから、テーブルの上はいつも雑多な物置きみたいになっていた。  でもその日は違った。  ふくらはぎの虫刺されが痒い。夕方になって少し涼しくなったほうが、蚊は活発に活動するのだろうか。ふたつみっつ、赤く膨れた肌を見る。掻きすぎて熱を持ち、破れた刺し口にうっすら血が滲んでいる。 「宿題、もうおわった?」  白い陶器の花瓶をテーブルに置いて、母さんは俺に話しかけた。花を飾る習慣なんてなかったのに、どこから出してきたのだろう。 「あと、漢字ドリルだけ……」 「じゃあ、先にご飯食べちゃう? 待ってね」  米の炊ける匂いと、煮物の醤油と脂の匂いがしていた。腹が減っていた俺は頷いてそのまま、上機嫌な母さんの一挙手一投足を見ていた。ぺたぺたと、裸足の足の裏が床に貼り付くような、湿気のある気候の日だった。  母さんが花瓶に飾ったのは、大きな花茎のオレンジ色の百合だった。飯の匂いに混じって、花の強い香気が鼻をついた。 「もらったの、ミズタニさんに」  母さんは、ひどく痩せた頬に笑みをたたえていた。  別に聞きたくなかったので、頷くだけに留めておいた。さっきまでこの部屋で母さんを抱いていた男の話なんて、聞きたくなかった。 「私が花が好きだって言ったの、覚えててくれたみたい」  花の向きを愛おしげに整えながら、母さんはもう部屋にいない男に思いを馳せている。  よく見ると、オレンジ色の花びらにポツポツと血しぶきでも浴びたような模様がある。気味の悪い花だと思った。 「今度、景虎になんか買ってあげたいって。何がいい? ゲーム? 図鑑?」  要らないと即答すると悲しい顔をするのはわかっていたから、考えておく、とだけ言った。  開ききった百合からは甘いような臭いようなきつい香りがする。その大きく開いた百合の雄しべの先、揺れるだけで赤い粉を落とすほどに吹いた(やく)を、母さんはティッシュペーパーで丁寧に取り除いていく。 「百合の花粉って、手についちゃうとなかなか取れなくてね」  母さんの小刻みに震える細い指が一つ一つ、それをむしり取ってゆく。俺は、母さんが花の世話をするのを初めて見た。ずっとそんな余裕なんてなさそうに見えたから。  あの男は嫌いだが、母さんに多少なりとも安らぎを与えているのかもしれない。その時の俺は幼かったから、珍しく落ち着いた様子の母を見て呑気にそう思っていた。  母がこんなに鶏がらのように痩せているのは、他ならぬミズタニのせいなのに。 「母さんて、花が好きだから花柄の服着てるの?」 「ん? ふふ、そうかも。好きなものを身につけると気分がいいもんね」  水道で手を洗う母のワンピースの背中に、名前を知らない小さな白い花の群れ。  目がギラギラしてずっと喋ってる母さん、しんどそうに部屋に閉じこもっている母さん、泣いている母さん。今日はそのどれでもない。いつもこうだったらいいと願っていた。  母さんが作った飯を、テーブルを挟んで一緒に食べた。  その時間は、俺が思い描いた『幸せ』の形によく似ていた。けれどまだら模様の百合が視界に入るたび、現実に引き戻される。  鮮やかなオレンジ色の花弁の中心、電灯の光を反射してぬらりと光る雌しべは、暴力と金で支配される母親と、その息子の俺を見張る監視カメラの目のようだった。  子供だった俺に出来たことはなんだろう、と最近また、考えてしまう。  あの日母さんに「一緒に遠くへ行こう」と言わなければ何か違っただろうか。  もう二度と間違いたくない。例え間違ったとしても、その結果この身が鬼に食われたとしても、最期の瞬間まで庄助に触れていたい。  俺はあの恐ろしい『幸せ』に足を取られて、身動きが取れないのだ。

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