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第三幕 十三、おんもらきの巣⑥
「俺の勝ちじゃボケ~!」
一歩二歩と、浴槽の縁に腰を掛けるように後退したカチの胸目掛けて、庄助はバスルームの入り口まで下がってから、助走のついた飛び蹴りを放った。
遊園地の急流滑りが着水するような大きな音を立てて、カチは背中から浴槽の中に沈んだ。庄助も派手に肩から地面のタイルに自重で着地し、ぴぎゃっと潰れた声を出した。
自分の吐く荒い息と、水がチョロチョロと流れる音。タイルの隙間から流れた水が、仰向けに倒れた背中のシャツに染み込んでゆくのが、興奮で熱くなった身体に心地よかった。今度こそ本当の静寂が訪れたのに、庄助の全身にはまだどくどくと血が巡っていた。
本当に静かだ。カチが沈んでいる浴槽からは何の音もせず、そう何の音も……。
「待っ……」
庄助は転がりながら立ち上がった。浴槽から突き出ているカチの足の末端、脛から甲、裏にかけても、やはり謎の斑点がある。が、今はそんなことはどうでもよく。
「お……おい、起きろ! 死ぬで!」
自分がやっておいてなんだが、この状況は非常にまずい。このままではこいつは溺死する。
別に普通に自業自得だし、むしろもっと無残に死んでほしいまであるが、ここで死なれて自分に殺人の前科 でもついてしまったら、今から始まる華々しい『早坂庄助成り上がりヤクザ列伝』に傷がついてしまう。庄助は焦った。水から引き上げようにも、手は後ろに縛られている。
十八歳のときに取った運転免許の講習で習ったことがある。人は心肺停止して脳に酸素がいかなくなってから……何分で死ぬんやっけ。とにかくめちゃ短かった気がする。
「ちょっ……ちょお! 起きろて!」
こいつが意識を取り戻したら、また捕まえられて暴行されるかもしれない。でももはやそんなことに構っていられない。死ぬのはマズい。爪先で浴槽をガンガンと蹴飛ばし、庄助は必死に声をかけた。
その時。
ずる……ずる……と、何かを引きずるような音がこちらにやってくるのが聞こえてきた。騒いだことによってあのウーヤとかいうラーメンマン野郎が戻ってきたのかもしれない。
庄助は固唾をのんだ。身を隠そうと浴室を飛び出した庄助の耳に、先ほどのあの気味の悪い足を引きずるような、ずるずる、ポフポフという音が……ずるずる、ポフポフ?
空洞のある柔らかいものが歩いているような、まるで聞き覚えのない奇妙な音に庄助が首を傾げたとき、部屋のドアがゆっくりと内側に押し開けられた。
クリーム色の短い毛に覆われた物体が立ち尽くしていた。大きくて丸い頭の両サイドについた小さな耳、真っ黒で小さい目、微笑んだように上がった口角にちいさな牙。
手足は血や煤で汚れていたが、庄助はそいつが何なのかを知っていた。
「ワウちゃん……?」
少し前に庄助が身につけた、あのワウちゃんの着ぐるみ。それが右腕で、意識のない坊主頭の男の首根っこを掴んで引きずりながら、つぶらな瞳でこちらを見つめていた。
頭からびしょびしょに濡れた庄助を見たワウちゃんが怪訝な声で、
「どういう状況だ?」
と尋ねてきたので、庄助は全身全霊を持って答えた。
「いや、それは俺が聞きたい!」
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