266 / 381
第三幕 十六、鍔際はそこに③
「そうそう、そのクスリの名前、『タイガー・リリー』って言うんだってさ」
「タイガー・リリー……?」
その名前を聞いて、景虎の脳内に昔母親と住んでいたあの家の記憶が蘇った。
タイガー・リリー。それは、たまにテーブルに飾ってあったオレンジ色の花の名前だ。
「百合の花の一種なんだけど、花びらにちょうどこのクスリの副作用みたいな斑点があるから、そう呼ばれてるみたいだね」
国枝の声が妙に遠くに聞こえる。
香りが強くて、反り返った花びらに、何日も放置した血しぶきみたいな気味の悪い模様がある花、置かれているテーブル、家の匂い、あの頃よくテレビで流れていたCM曲、それらすべてが一気に、景虎の胸に感覚を伴って去来した。
ちょうど今みたいな季節になると、家の床が足の裏にぺたぺたとくっついてきて、エアコンは古くてたまに水が漏れて、母さんは口数が多いか一言も喋らないか、男と部屋に閉じこもっているかのどれかで、夏に咲くというあの百合の花、この花はタイガーリリーって言うのよって、あなたの名前と似てるから好きだって、プレゼントしてもらったって言ってたのになぜか叩かれて顔を腫らした母さんがよく、
「カゲ?」
景虎は現実に引き戻された。
目の前には相変わらず、洗った横隔膜みたいなフカヒレの煮込みが、ぐったりと横たわっている。隣にいる金髪の男が、膝の上で握りしめられた景虎の手を掴んでいた。
耳の裏でどくどくと血が流れる。心配そうに覗き込んでくる猫のような瞳を見つめ返した。
「どしたん、ぼーっとして。また熱ぶり返した?」
吐き気と目眩のする、まるで病のような追憶に持っていかれそうになる意識を、現し世に繋ぎ止めてくれる柔らかな手のひら。景虎はそれをやんわりと握り返す。
「大丈夫だ」
飲み下した生唾が嘘のように重い。もはやおぼろげな母の姿が、ふとした瞬間に嫌な思い出とともにフラッシュバックする。そのたびに景虎は、まだあの家に囚われている子供のままの自分自身を意識してしまう。
身体は平均的な男よりもずっと大きくなったし、生きるために人道に背く行為を繰り返している。そのくせ花の名前ひとつで気分が悪くなるような、純粋さの残滓が存在する自分が許しがたかった。
「何にせよ、川濱組の目的がウチを潰すことだけなら、もっと簡単なやり方があるでしょ。それこそ、どうせクラブのママさんを脅すなら、酒に毒を盛ればよかったのに。庄助がタニガワにやったみたいに」
国枝はそう言って紹興酒を一口飲むと、人聞きが悪いな俺は眠らせただけです、と口を尖らせる庄助に北京ダックを巻いてやった。直接手から食わせると、ぱくりと遠慮がちに齧り付く。白髪ネギが口からはみ出ている。カピバラの餌やり体験みたいだな、と国枝はほくそ笑んだ。
「そもそも……」
色をなくしていた景虎の目に光がうっすらと戻る。形のいい唇が、ぽつりと疑問を紡ぎ出した。
「俺たちがあの日、関内のクラブに行くことが漏れたのは、どこからだと思いますか? 親父はともかく、誠凰会の久原さんは慎重な人だ。ペラペラ喋る人じゃない」
「……さあねえ。そのへんは、憶測で話すのはやめとくよ。もっと証拠を固めてからだね」
景虎の言葉は疑問の体をなしながらもどこか確信めいているようであったが、一方の国枝は奥歯に物が挟まったような物言いだ。
庄助は二人の話をぼんやり聞きながら、憧れの北京ダックよりも、下に敷いてあるえびせんのほうが美味しいと思っていた。
「結局何もわかってませんってんじゃ、ここに呼んだ意味がないからさ。ほら、誠凰会の持ってたデータの復旧、ザイゼンさんが頑張ってくれたよ」
国枝はスマホの画面を、庄助たちに向かって差し出した。そこには、真っ白で大きな犬に顔を舐められて笑う国枝の……、
「間違えた。こっち。それはちょっと前に行ったサモエドカフェのやつ」
素早いスワイプによって、破顔した国枝の写真は消えてしまった。意外な素顔をもうちょっとじっくり見たかった気もするが、庄助の目は次に出てきた画像に釘付けになった。
ともだちにシェアしよう!

