269 / 381
第三幕 十六、鍔際はそこに⑥
翌日の昼下がり。
あらかた持って行く荷物に目星をつけた庄助は一息つくと、少し遅めの昼食にピザの宅配を頼んだ。
ゲーム機は持って行く。実家から持ってきたマグカップは置いてこうか。アルバムも向こうでは見ぃへんやろ。冬場に着てるスタジャンは置いてく。スーツは必要になった時に、ここに取りに戻ったらええし。
などと、小旅行に行く前のような適当さで考えていた。
「荷造りめんどいな~」
正直な気持ちが口をつく。キッチンで段ボールを組み立てている景虎が、肩越しに振り返って頷いた。穏やかな時間だった。
変な奴らに追いかけられたことや捕まったこと、川濱組の手先に景虎たちが襲撃されたこと。この部屋に居ると、それら一連の出来事が全て夢だったように感じる。
「やっぱ別に、そない急いで出ていかんでもええくない?」
この期に及んでまだそう思ってしまう。
テレビボードに置いている池袋のゲーセンで獲ったぬいぐるみも、酔っ払った帰り道のコンビニで当てた一番くじのデスクライトも。端から見るとくだらないかもしれないけれど、庄助にとってはまだまだ景虎と重ねてゆく思い出の一つなのだから、離れたくなかった。
「目に見えてドンパチするだけが抗争じゃない。もうとっくに始まってるっていうのに、庄助は危機感が足りてないな」
たしなめるように景虎が言う。あれだけの目にあったのに、喉元過ぎて熱さを忘れた庄助は不服そうな顔だった。
せっかくここでの暮らしに慣れてきたのにな。まぁ、カゲがおるんやったら別にどこ住むんでもええけど……。
そんなふうに考えていると、景虎のスマホに着信があった。仕事の電話だろうか、電話に出た景虎は少し深刻そうな顔をしながら部屋の奥に歩いてゆくと、外を見るようにカーテンをうっすらと開けた。
サポーターの巻かれた景虎の左手がカーテンを掴むのを横目に見る。ふと、この前彼が熱を出したときに買っておいた、みかんのゼリーがまだ残っているのを思い出した。
家を出るのであれば、冷蔵庫の中も空っぽにしていくのが理想だろう。と、景虎と入れ替わるようにキッチンにゆき、冷蔵庫を開ける。小さなカップの蓋を開け、銀色のティースプーンをゼラチンに突き刺した。
キッチンの格子窓の磨りガラスから溢れる黄色い日差しは、憎たらしいほどに夏だ。
引っ越しの準備だけでなく、老人ホーム『がるがんちゅあ』の夏祭りを来週の末に控えた慌しい日々だった。今年は大阪の実家に帰れそうもない。
庄助はみかんのゼリーを口に含みながら、母の顔を思った。
額に汗が滲むのを手の甲で拭うと、左の眉の上で肌と同じ温度に温まった金属が触れる。新しいピアスは、景虎が買ってくれたものだ。
前のものと形はそう変わらないとはいえ、他ならぬ景虎に身に着けるものをもらうのは照れくさい。なんとなく、キスマークとは違う所有の証のようだった。
再会した時に、まだ着けていてくれて嬉しいと笑ってくれた静流を思うと胸が痛いが、なくなってしまったものはしょうがない。今度会った時に謝ろう。
その時、ガンガンと無遠慮に外の階段を上ってくる足音が聞こえた。ピザの宅配の到着時刻にはまだ早いはずなのに、玄関のチャイムが鳴った。
「はい?」
戸口に近い庄助が、直接外に声をかける。
「お荷物です」
溌剌と若そうな男の声が応えた。ゼリーをシンクに置くと、サンダルをひっかけてスコープから外を覗く。宅配業者の制服らしきボーダーのポロシャツに、キャップを目深に被っている。顔は見えなかった。
「すんません、そこ置いといてもらっていいすか。今、手が離せなくて」
なるべく警戒心を見せないように伝えると、薄いドアの向こうの男は、少しの間沈黙した。
「わかりました。生物 なので、お早めにお願いします」
男はそう言うと、何かを玄関脇に立てかけてから、また大きな音を立てて階段を下りていった。
「なまもの?」
何か食べ物を取り寄せたのを、忘れていたのかもしれない。思い出そうとしたが、心当たりはなかった。
階段を下りた足音を追って耳をそばだてていると、階下から原付が走り去る音が聞こえた。
「庄助」
耳元で声をかけられた庄助は、背後にキュウリを設置された猫のように飛び上がった。いつの間にか、すぐ後ろに景虎が立っている。
「びっ、ビビった、なに……」
「国枝さんから連絡があった。いいニュースと悪いニュース、どっちを先に聞きたい?」
使い回された陳腐な台詞だが、景虎が言うとサマになるのがむかつく。庄助はサンダルを引っかけたまま、景虎に向き直った。
ともだちにシェアしよう!

