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第三幕 十六、鍔際はそこに⑦

「……ほなら、ええニュースから」 「わかった。昨日の夜中、お前をいじめたあの青い前髪の、カチとかいう男が逃げたらしい」 「全然よくないやんけ!」  律儀にツッコミを入れるも、景虎は顔色を変えなかった。 「わざと逃がしたんだ。奴にGPSを仕込んでる。上手くいけば奴らのアジトが分かるかもしれない」 「GPSぅ!? お前そればっかやんけ……やっぱ俺にも仕込んでんちゃうやろな」 「……大丈夫だ、もうない」 「ほんまか~?」 「もうない」  両手を上げる景虎を尻目に、庄助はもう一度ドアスコープを覗き込む。外に誰もいなさそうなことを確認して、ドアを開けた。  玄関脇のユーカリの鉢の隣に、縦長の段ボールが置かれている。持ち上げると上の方が軽く、箱の中の空気が漏れて何かが甘く香った。 「じゃあもういっこ、悪いニュースは?」  聞きながら、箱を室内に持って入って、はさみでガムテープを裂いた。伝票の宛名が“遠藤景虎様”になっていることに、庄助はその時気づいた。 「病院に入れてた襲撃犯のほうがさっき死んだ。あの唇の刺青の女と同じく、何者かに点滴に薬物を大量に混入されて」 「え……」 「そっちは防犯カメラを調べてる。これ以上余計なことを喋らないように、口止めに殺されたのかもしれないが……」 「……なあ、これっ!」  庄助は景虎の話す悪いニュースではなく、箱の中身を見て固まっているようだった。柔らかい金髪ごしに届いた荷物を覗き込むと、強く甘い香りが鼻をついた。  オレンジ色の大きな花弁にぽつぽつと黒い斑点。思わず景虎は呟いた。 「……タイガー・リリー」  今が花盛りの百合の花束は、数本まとめて切り花にされているのに、鮮やかに咲き誇っていた。  反り返る花びらの間から、庄助の持っていたラッコのキーホルダーの、千切れた首が覗いている。薄紫のちりめんの生地と、飛び出た綿の隙間に埋まった黒い小さな機械端末に、真っ赤な花粉がこびりついている。まるで血のようだ。 「この端末、俺のだ」 「は? なにこれ」 「今言っただろう。あの青い髪の男に、俺が。あの夜仕掛けたGPSだ」  失くしたと思っていたラッコのキーホルダーが破壊されて、GPS端末とともに返ってきた。景虎がカチに仕掛けたという。  それが一体どういうことなのか、庄助は少し考えたがわからなかったので景虎を問いただした。  つまり、アリマ老人に作ってもらったはずのラッコのキーホルダーの中に、景虎がGPSを仕込んでいた。それを、カチの持ち物なり服なりに紛れ込ませてわざと逃がしたが、本人、または向こうの組織にバレた。バレて破壊されて、見せしめとばかりに送ってきた。それも事務所でなく、個人の家に、タイガー・リリーとともに。  庄助は何重にもショックだったが、愛着のあったキーホルダーが無残な姿で返ってきたことが一番悲しかった。いつも危ない時に助けてもらっていたとはいえ、ペットみたいにGPSをつけられていたことに腹が立った。  何が愛の力やねん、と怒鳴りつけたかったが、しかし庄助はそれ以上に薄気味悪さに身震いした。  ドラッグと同じ名前の花とGPSの端末の贈り物は、きっと宣戦布告なのだろう。  今すぐに出ていかなくてもいいと思っていたが、それはとんだ平和ボケだった。  住所はとうに知られている。すぐにでもここを出たほうがいいだろう。しかし敵の手はもうそこにあり、出ていったところを捕らえられるかもしれない。何もかも罠に見えて仕方がなかった。  隣を見遣ると、景虎が大輪の百合の花を見て表情を曇らせている。庄助はその手首をそっと掴んだ。  大丈夫や、そう言ったが何の根拠もなかった。自分に言い聞かせているようで滑稽でもあった。  シンクの上に置いた食べかけのゼリーが、窓の外から差す外気の熱で柔らかく溶けてゆく。家の外は馬鹿みたいに晴れているのに、二人きりで霧の中にいるみたいだった。 「心配すんなよ」  根拠のない“大丈夫”を裏付けるように、庄助は景虎の大きな身体に身を寄せた。 「俺がちゃんと、カゲのこと守ったる」  景虎はその言葉に目を見開いた。しかしドアの方をじっと睨みつける庄助の横顔は真剣で、からかってはいけないような威圧感があった。  馬鹿で愛らしい彼の中に、小さな肉食獣の姿を見るのは、頼もしくもあり、少し恐ろしくもあった。  それはそうだ。獣であるからには、誰も容赦はしてくれないのだから。  横たわった鬼百合たちが、部屋の真ん中でものも言わず芳香を放っている。景虎は、まだ痛む左の手で庄助の身体を引き寄せた。 〈終〉

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