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【番外編】雪夜の巷に蒸気は香る

 今夜の東京は大寒波。みぞれ混じりの雪に降られて靴の中まで濡れた。  男二人のルームシェアは、冬でもあまり風呂を沸かしたりしない。温まるのはいいが、入った後の掃除などがめんどくさいからだ。けれど今日はそうも言っていられない。 「さっぶ、さっ……ぶ」  庄助は呟きながら、氷のような冷たさの靴下を脱いで洗濯カゴに放り投げた。  古いエアコンが、老人が痰を吐く前の助走のような、コーッという胡乱な音を立てて重い身体を動かし始める。冷え切った室内の奥にさっさと入ってしまった景虎が、自動湯張り機のスイッチを押した。  冷たい足裏と同じような温度のキッチンの床をつま先で跨いでリビングへ、上着も脱がないまま、湿った足先を全く暖まっていないこたつに突っ込む。が、がらんどうの空間は外と同じくらいに凍てついていて、庄助は仕方なくまた立ち上がった。  濡れたコートをウォールハンガーにかけている景虎に、庄助は自分の上着を手渡した。部屋住みの下っ端のくせに、まがりなりにも兄貴分にすることではない……が、もう誰もそんな無礼は、組のものでさえ特に気にしていなかった。  庄助は、窓のところまで行ってカーテンをちらりと開けて外を見た。ほぼ横殴りの強風が、白い雪を窓に叩きつけているありさまに身震いして、手を擦り合わせた。 「東京って、雪でめっちゃ電車止まらん?」 「そうなのか?」  髪についた水を払いながら、景虎は凍える庄助を横目で見た。冷気で赤らむ頬に雫がひとつ落ちている。 「大阪おったときも、ニュースでしょっちゅう見とった気がする。電車止まってもて、タクシーとかバスの行列にどわーって並んでる人おるイメージ」 「地方は電車が止まっても、特にニュースにならないだけじゃないのか?」 「ちほー!?」  実を言うと大阪の人間は、自分のことを地方民だとは思っていない。地方というのは東京大阪を除いたその他の府、県ならびに道を指すと思っているし、東京と並び立つ日本代表の大都市だと信じて疑わない。なんとなれば、東京が首都だということも何かの間違いだと考えている。  それなのに、東京生まれ東京育ちのシュッとしたイケメンヤクザに、愛する大阪を『地方』と呼ばわりされてしまった。庄助は非常にむかついたが、言い返す言葉は特に思いつかなかった。 「……駅に豚まん売ってへんくせに」 「何を言ってるんだ?」  景虎が二人分のコートをかけ終わる頃には、エアコンのルーバーが異音を立てつつ開口し、暖かい風を吐き出し始めた。 「そんな窓際にいたら寒いだろう」  暗い外を見つめる庄助を背後から抱きしめ、金髪に鼻を埋めた。冷えた外気の匂いの奥に、庄助本体の柔らかい匂いがかすかにする。 「も~、くっついてくんなて……」  そうは言うものの、二人きりの距離に慣れきっている、景虎より頭一つ分小さい身体は、特に抵抗はしなかった。庄助は、カーテンの隙間から、飼い主の帰りを待つ猫のように暗い空をじっと見ている。 「大阪も、降っとんかな。オカン、前に雪の日に滑ってケツ打って青タンなっとったから、またこけとんちゃうか思て」 「見たのか? オカンの尻を」 「見てへんわっ! こんな青ぅなっとる~言うてたのを聞いただけや」 「ふふ……」  景虎の笑う息が耳をくすぐる。くだらないことを話しているうちに、部屋は暖まってゆく。  —お風呂が沸きました。  軽やかなメロディーとともに、女の声のアナウンスが割って入る。実家の湯張り機と異なる音と声に違和感を覚えていた頃が懐かしいほど、庄助にとってここでの二人暮らしは、身体に染み付いていた。 「一緒に入るか?」 「アホ。お前みたいなデカいのと二人で入ったら、湯ぅ全部なくなるっちゅーねん。先に入ってこいよ」 「寒いだろ? 庄助が先に入ったらいい」  庄助はゆるく首を振った。 「んーん。雪、まだ見てたい。何気に大阪てあんま降らんから、珍しいねん。……明日積もるかな?」  子供のように目を輝かせる庄助を見て初めて、景虎は雪が積もればいいと思った。  首まで埋まってもなお喜ぶ柴犬みたいに、はしゃぐに違いない。バカだから。バカは、可愛い。  身を折りたたむようにして押し込んだバスタブの湯の中でじっとしていると、キッチンの辺りから庄助の、ゆきだるまつくろう、と子供向け映画の歌を歌うのが聞こえてくる。  外の風の音と、愛しい歌声。それらを耳にしていると、冷えた身体の芯に、心地よい熱が広がるのを感じた。  明日雪が積もったら、またこうして風呂を沸かそうか。  いつの間にか自分の如きが、当然のように次の日を楽しみにするようになったことに、景虎は湯の中でひそやかに驚いていた。 ※Xの企画、#お風呂が沸くまで に寄せて書いたものです。

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