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第四幕 二、陽炎に消えたひと②
「俺はね、いない間庄助を頼みますって、景虎に言われてんの」
「そうなんですか?」
「そりゃそうでしょ。まあ常に見張ってるわけにはいかないから、自分の身はある程度自分で守ってねってことだけど。ある意味これは、景虎から庄助への信頼だよ。庄助も、景虎を信じてあげられる?」
「……信じたいけど、めっちゃ心配です」
そもそも二人が景虎のアパートを出ていくきっかけとなったのは、つい一週間ほど前に、嫌がらせのような贈り物が家に届いたからだ。
鬼百合の別名であるタイガー・リリーの花束と、庄助のキーホルダーに隠していたGPS。
それらは明確な意図を持って、二人に送りつけられてきたものだ。うまく言えないけれど、並々ならぬ執着と、怖がらせてやるという悪意を庄助なりに感じた。
もし荷物の送り主と相まみえることになったら、景虎といえどただでは済まなさそうな気さえする。
食い下がってくる庄助を、国枝は頷きながらあしらった。
「わかるよ、だからこそ庄助はいつも通りこっちの営業やって早めに帰って、新しい家をキレイにしてさ。それも部屋住みの仕事のうちだよ。あいつだって今回は真剣に自分から……」
いつものように言いくるめようとして、国枝はぎょっとした。
庄助の眼球の表面に面白いように涙が溜まって、下瞼の真ん中から大きな粒がぼろりと零れた。先駆けの涙に続けとばかりに、次々と溢れて、国枝のデスクに落ちた。
手の甲は握りしめすぎて、筋が浮いている。庄助は感情の起伏の激しい人間だが、人前で簡単に涙を見せるようなタイプではない。珍しい状況に、国枝は驚いた。
「……わかりました」
一つも納得がいっていなさそうな涙声を、喉から絞り出した。よほど悔しくて悲しいのか、庄助は頬を赤くして必死に堪えている。
不思議の国のアリスの、涙の池のようだと国枝は思った。庄助のそれは鼻水も混入していて、そんな美しいものではないのだが。
「ええ……? そんな泣かないでよ、俺がいじめたみたいじゃない」
「泣いてません!」
頬に幾つも涙の筋を作っているのに、泣いていないと言い張る部下に、国枝は困った顔をしてみせた。
庄助も庄助で、きつくどやされるよりも、共感しつつもきっぱりと拒絶する、国枝の態度が余計に苦しかったようだ。
「おい、なんだ庄助情けねえな。ちょっと景虎に置いてかれたくらいで、ピーピーピーピー泣きやがって。お前ホモなのか? オカマなのか? しっかりしろよ男だろ? キンタマついてんのか?」
野球のラジオ中継を聞いてメモを取っていたトキタが、近年稀に見るような差別的、かつハラスメント的な言い方で庄助を責める。年齢はまだ三十路手前の彼だが、上の世代のヤクザの価値観を間違いなく受け継いでいるような物言いだ。
普段なら軽く聞き流すような言葉なのに、今の庄助にとってはオーバーキルだった。
「ゔ~っ……んぶぶぇ……」
目玉を涙の中で溺れさせながら、庄助は終わりの会で糾弾される子供のように、唇を震わせた。
「あ~あ、トキタくんがいじめた」
国枝が差し出したボックスのティッシュペーパーで鼻をかむと、庄助は大きく深呼吸をし、
「すびばせんでした、外回り行ってきます!」
と、頭を深く下げて踵を返した。
丁度ドアのところで入れ違いに事務所に入ってきたナカバヤシが、庄助の真っ赤な泣き顔を見て、何事かと驚いた顔をした。
「上に口ごたえなんて、考えらんねっすよ。国枝さんは庄助に甘すぎっす。なんでなんですか?」
トキタは不満げに口を尖らせたが、国枝は相変わらずヘラヘラと笑っている。
「あいつはトキタくんみたいに、殴れば何でも言うこと聞くようになるタイプじゃないんだよ。引くのも大事なの、梅切らぬ馬鹿っていうでしょ」
「ウメ……? あぁ! 人質、もう埋めてくる感じっすか? 俺行きますよ!」
「……ごめん、俺が悪かったね」
厳めしい顔貌の中、妙に無垢にキラキラしているトキタの瞳が眩しい。国枝は肩をすくめた。
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