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第四幕 三、毒を喰らわば①
涼しい場所で水の音を聞いていると、眠くなってくる。コポコポと超音波で揺らぐ水面の歌と蒸気のバックコーラスに、イランイランの豊かな香りが満ちる。
ただでさえ寝不足なのに。
景虎は眉骨の窪みに、指で圧をかけた。
十年近く前、高校卒業の前。十八になった景虎が墨を入れはじめたときは、彫り師の自宅に呼ばれたものだった。
畳に敷いた布団の上でじっと目を閉じて痛みと退屈に耐え、何度も足を運び、背中の般若と両肩の虎が完成したのは、景虎が二十歳を過ぎてからだった。
こんなチルい場所で、ボサノヴァだのジャズだのを聴きながら気軽に刺青を入れるなんて、にわかには信じられない。
「カバーアップですか、タッチアップですか? それとも、新しくお考えで?」
冷えたウーロン茶のペットボトルが、景虎の目の前、ガラステーブルの上に置かれた。
「刺青の相談に来たと思うのか?」
「はぁ、聞いただけでしょ。んな怒らんとってください」
ため息とともに、ハーフアップにして束ねた、白に近い金髪が揺れた。庄助の幼なじみ、萬城静流 だった。
売れっ子ボディアーティスト『TANN 』としての顔を持つ彼は、最近特に忙しかったようだ。もともと細面の瓜実顔が、前に見た時よりも少し痩せて見えた。
差し出されたペットボトルの中身を飲む気はない。ただ、静流の中性的な、薄く化粧された顔を見ていると、腹の中にふつふつと苛立ちが満ちてくる。
庄助の幼なじみで、庄助に刺青を入れる約束をした男。
本当の事を言うなら、自分のいないところで庄助と話をしただけで殺したい。しかしそんなことでいちいち人を殺していては、ヤクザ社会から面倒なやつとして爪弾きにされるからやらない。ヤクザといえど、人間。人間はどこまでいっても社会性の生き物なのだ。
静流のアートスタジオである『シンギング・フィッシュ』は、本来であれば今日は休みだった。のにも関わらず午前中から、エアコンを稼働させシーリングファンを回して、アロマまで焚かれている。
施術どころかカウンセリング予約も半年先まで埋まっているというのに、静流がわざわざ身体を空けてここに居るのは、景虎が彼を呼び出したからだ。
「単刀直入に聞く。萬城さん、あんたは川濱組と関係があるのか?」
静流は肩をすくめて、景虎の向かいに座る。テーブルとセットのラタンのソファが、ギュッと軋んだ。
「あると思ってるから聞いてるんでしょうけど、ないですね。川濱さんは歴史の長い組織やけど、今は関東でしか活動してないでしょ。織原組 みたいに本家が大きいわけでもなし、ウチの親の会社とは何の付き合いもないわ」
「あんた個人とはどうなんだ?」
「さあ? あったとして、正直に答える義理ないでしょ」
景虎は表情をぴくりとも動かさず、続けた。
「先月、萬城さんがウチに遊びに来た次の日、俺と親父は出先で襲撃に遭ったんだ。身内にも言っていなかった行き先を、親父はあのパーティーの場で漏らした。……気を悪くするなよ、その場に“たまたま”あんたが居た」
「それはほんまに“たまたま”としか言いようがないんですけど……矢野さん、無事でよかったですよね。ていうか、正直に言うたらどないです? あんたを疑ってるって。気に入らんって」
静流はあくまで挑戦的だ。職業上、柄の良くない人間には慣れているのだろうが、身体の大きな景虎相手にもまったく臆さない。
「あんたを疑ってるし、気に入らない。でもそれだけじゃない」
景虎はスマホを取り出すと、操作して静流に突きつけるように画面を見せた。
アプリに表示された渋谷の地図だった。
GPSの端末には移動履歴が残る。
景虎の家に送り返されてきた端末は壊されていたが、その直前まで端末が在った箇所を、専用のアプリで特定するのは容易だった。
あの夜、庄助に逆ねじを食わされたカチという青い髪の男と、それを追いかけてきた着ぐるみの景虎によってボコボコにされた坊主の男。
わざとカチのほうを逃がして、GPSを持たせたままアジトに帰らせる。そう織原の組員に指示したのは景虎だ。
なぜカチが選ばれたのかというと、もう一人の男は、景虎が作業車で追突した折に足がへし折れてしまったから。
酸鼻極まる拷問のあと放置されていたカチは、ジーンズの後ろのベルトループにGPS入りのキーホルダーをつけたまま逃走したという。そこそこ大きく存在感のあるぬいぐるみだ、何か仕掛けられているとすぐに気づいたかもしれない。
気づいたところで、彼は両手指の爪を全て剥がされていたので、外すのは難しかっただろうが。
満身創痍のカチが向かった先は夜の渋谷。雑多でマンションやビルの多い地域は、悪人にとっては身を隠すには持って来いの密林だ。そこに彼らの根城があるとしても、何らおかしくはない。
アプリの移動履歴を見ると、道玄坂のビルの辺りに紛れ込んだあと、位置情報が消失している。端末はおそらく、そこで無効化されたのだろう。
そしてその、位置情報が消失した地点というのが、静流の店『シンギング・フィッシュ』の入っているビルだったという。
「俺と親父を襲った川濱組の雇われと、庄助を拉致った男たち。こいつらは繋がってる。GPSがこのビルで消えたのも、何もかも“たまたま”なのか?」
「……ふーん、なるほどなぁ。で? 遠藤さんはどないしたい? 知らんって言っても、聞いてくれんのでしょ。ボクが口を割るまで殴る?」
「そのつもりなら最初からそうしてる。俺はあくまで穏便に答えを聞きたいんだ」
「庄助のために?」
静流の瞳の奥に一瞬、真っ赤な鬼火のようなものが揺らいだ気がした。
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