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第四幕 三、毒を喰らわば③

「場数を踏みたいって、そんなにあかんことなんですかね。だってヤクザに座学はないやんか」  涙は止まったが、愚痴は止まらなかった。庄助は、チェスターフィールドのソファに横になっている男に向かって、ずっとブツブツと話しかけている。 「こんなにやる気に満ちあふれてんのに……なんちゅーか、期待されてない感えぐい」  パイプ椅子に腰掛けた庄助が不貞腐れたような声を出すたび、男はソファの上で腕を組んで、窮屈そうに寝返りを打つ。チェック柄のアイマスクの下で、眉を何度もしかめているようだ。 「俺は組のためにオッサンにケツまで揉まれてんのに、そのへんを汲んでくれへんのオニや思うんですよぉ~!」 「だーっもう! うっせえなお前は~!」  向田稔二(むこうだねんじ)は唸りながら飛び起きた。重心が移動したためか、赤いレザー張りのソファがミシッと鳴いた。アイマスクを剥ぎ取ると、疲れたような顔を隠さずに、庄助を睨めつけた。 「話聞いてないねんもん、向田さん」 「当たり前だろが、俺ァ仮眠してんだよ仮眠!」  ここは男の娘キャバクラ『いちゃいちゃくらぶ☆あるてみす』のスタッフルームだ。  落ち込みながらも外回りの仕事をこなしていた庄助は、事務所に帰る途中、あるてみすのスタッフルームに明かりがついているのをビルの外から見つけ、特に用もないのに愚痴を言いにわざわざやってきた。  オーナーである向田は、昨日は従業員と遅くまで飲んでからサウナに行って、家に帰っていないらしい。 「なんで俺のとこ来ンだよ、他にあんだろ」 「だって暇そうなん、向田さんくらいしかおらんもん……」 「暇じゃねえわ! 愚痴りにくんなバカ」  向田は、治療中の義歯を剥いた。ため息をつくと、充電していた加熱式タバコに手を伸ばす。館内は全てのエリアが禁煙だとビルの至る所に書いてあるが、彼には関係ないらしい。 「で? 出世だのなんだのグチグチ言ってたけど、お前は結局遠藤に置いてかれたのが心細いわけだろ」  舌打ちをしながら、向田がわざとらしく見た腕時計の針は、十七時過ぎを指していた。まだ開店の時間には早い。 「心細い……? そう、なんかな」 「そうだろ。こっち出てきてから今まで、あいつとずっと一緒だったんだろ? それを、命を狙われてるかもってのに置いてかれたら、そりゃ怖いだろ。大の男でもよ」  まさかあのクソ野郎の向田が、こんなに共感してくれるとは思わなかった。  仮眠してると言いつつも、話の要点は聞いていたらしく、庄助はちょっと嬉しくなる。しかし、過去に彼から受けた暴力や屈辱を、喉元過ぎたからといって忘れたわけではない。これは子犬を拾っているヤンキーが、必要以上に善人に見えるのと同じことだ。向田が優しくても、常に注意を怠ってはいけない。 「それでも、俺がおったら邪魔なんやろなってのもわからんでもないし、信頼して待ってろって言われたら、もうなんもできへんので……」  弱音が口をつく。向田はわりと嫌いだが、醜い感情を取り繕わなくてもいい関係性が楽だ。 「信頼しろ、ねえ。遠藤はあんなんだが、妙に狡賢いところあるからな。そう言っておきゃお前が大人しくなると思ってんのかもしれんぜ」  どきりとした。他人にそう言われて、庄助は改めて思う。やはり景虎は、自分を相棒だなんて思ってくれてはいなかったのではないかと。 「……それ、地味にいっちゃん、きついっす……」  しまったと思った。言葉に出すと込み上げてくる。灼けつくような感情とともに、止まっていたはずの涙が。  嫌いな人間の前で泣いてしまうほど、自分が弱っているという事実が恐ろしい。泣き顔を見せたくなくて、庄助は下を向いて(はな)をすすった。  涙ぐんでいることをからかわれるかと思ったが、向田は庄助の俯いた頭、金の毛がくるりと渦をまくつむじの辺りを見ては、何か思案しているようだ。 「あー、生憎、男にかける優しい言葉は持ってねぇんだけどよ。せっかく俺ンとこに来たからには、“悪巧み”の相談なら乗ってやってもいいぜ」 「わるだくみ……?」 「ま、やるかやらないかはお前次第だ。先に言っとくけど、俺は何も手伝わんぜ。国枝……さんにいじめられるのはもう懲り懲りだからな」  顔を上げることはできなかったが、声音でなんとなく、向田がどんな表情をしているかは想像できた。きっと口の端を上げて、意地悪そうに笑っているに違いない。

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