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第四幕 四、くびきのもとに③
ミズタニ。
タイガー・リリーの花を見るたび、その男の名とおぼろげな顔貌が浮かぶ。
景虎が母である遠藤小花 と住んでいた家に、よくタイガー・リリーの花束を持ってきていた人物で、小花に覚醒剤を売って堕落させた男だ。
織原組から絶縁されて行方不明になっていたはずだが、犯人が彼だとしたら、なぜ今頃ちょっかいをかけてくるのか?
考えるだけではわからない。だが、もしミズタニが関係しているのであれば、自分を追い出した織原組への恨みから、矢野や景虎を狙う……というのは、ある程度筋が通っている。
「……知っているかと聞かれれば、イエスだ」
「ふむ、ありがとう。端的に言うとだね遠藤くん。僕たちの目的はそのミズタニに会うことなんだよね。シズくん、話してくれるかい?」
静流は頷き、ストローでアイスコーヒーの底を啜ると、とても退屈な話だとでも言いたげに、ぽつりぽつりと切り出した。
静流は、十六年前に大阪で起きた自動車暴走事故の被害者らしい。
年の暮れ。萬城一家は大阪梅田の、デパートに年越しの品を買いに来ていたという。そのデパートの地下にしか売っていないという、正月の雑煮用の白味噌を買って、父行きつけの近くの洋食屋で、少し早い夕食をとろうかという話になった。
大通りの横断歩道に向かって、静流の三つ下の弟、萬城翔琉 が、人通りの多い歩道を先にゆく。さっき買ったテレビゲームの新作をやりたいから、食事なんかより早く帰りたいとふてくされて、家族と少し離れて歩いていたらしい。
静流は父母より早足に、彼を追った。待って、とリュックを背負った背中に声をかけようとしたとき、前方から悲鳴が聞こえて、それと同時に翔琉の姿が消えた。
あっと思って巡らせた視界の中に、こちらに文字通り飛んでくる、知らない中年男性の顔が見えた。彼は笑えるくらい大真面目な顔をして宙を舞い、静流の身体に覆いかぶさってきた。
否応なしに歩道に押し倒され、圧痛に悲鳴を上げる静流のダウンジャケットに、見たこともない赤黒い毛むくじゃらがべったりと貼り付いた。頭皮ごと剥がれた、男性の顔の皮だったという。
センセーショナルな事件だった。
薬物中毒の男女が、車の中で言い争いになった末の暴走。そう言われているが、真実はわからない。車に乗っていた二人は死んでしまったから。
彼らを含む死者は三名、重傷者四名、静流と翔琉はその他十数名の怪我人に分類された。年末の大事故ということで、当時は派手に報道がなされ、それに伴い彼らの使っていた薬物のうちのいくつか、今で言うところの危険ドラッグが数種類、規制される運びにまでなった。
静流に覆いかぶさってきた男は、まともに車体に撥ねられて即死だったそうだ。
静流は肋骨と骨盤を、車に直接吹き飛ばされて腰から着地した翔琉は、腰椎と両足を骨折した。事故以来、翔琉は二度と歩くことはなくなった。
萬城家は、そんなことがあっても事業が傾くことはなく、相変わらず裕福ではあったが、円満だった家庭内はおかしくなってしまったらしい。
暴走事故を起こした男女が薬を買い付けていたのは、ミズタニという元織原組の暴力団員からだった。
だが当時ミズタニは捕まらなかった。男女は死亡し、薬物売買の確固たる証拠を得るには不十分だった上に、ミズタニはとうに海外に逃亡して行方がわからなくなっていた。
景虎は後に、静流が嘘を言っていないか調べた。事件は十六年前の十二月三十日に起こっていて、『バンジョーフードカンパニー』の社長の令息が二人巻き込まれて大怪我をした、との記録が確かにあった。
過去を捏造することはできない。静流の言っていることは事実なのだろう。
しかし、まるで他人事のように語る静流を見ていると、本当にミズタニを恨んでいるのだろうか、という気持ちになってくる。
化野とかいう胡散臭い探偵に依頼してまで、ミズタニの行方を突き止めてどうこうしたいような、強い気持ちに突き動かされているとは思えなかった。
もしかしたら彼も景虎同様、ミズタニに心を壊されてしまった一人なのかもしれないが。
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