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第四幕 五、きみとわたしの虎尾春氷⑤
「なあ、萬城さん。そういえば俺は、あんたの子供の頃の写真を見たことがある」
静流を追って、階段を上る。数日前まで庄助と住んでいたアパートの階段と同じ、色気のない縞鋼板の踏板だ。
「へえ。庄助に見せてもらったんです?」
「そうだ。あんたの弟も一緒に写ってた」
静流は困ったように笑った。
「……そっかぁ、じゃあ事故の前のやつかな。庄助はね……庄助だけが、あの事故の後も変わらんかった。周りの誰もが過剰に反応する中で、庄助はボクにも翔琉にも態度を変えずにいてくれたんです。今までどおり、兄ちゃん兄ちゃんって、子犬みたいにあとをついてきて、大きくなってもなんでもボクの真似して、服装とか髪型まで……」
前をゆく静流が背中越しにぽつぽつと話すのを、景虎は黙って聞いていた。
「そういうのムカつくねんなぁ。もうどうしようもなく、あいつのことめっちゃ嫌いや」
吐き捨てるような声音が、湿気の多い夜風に溶けた。白金の細い髪が揺れて、横顔が見える。過去の話を聞いてなお掴みどころのなかった静流の核が、その時ほんの少しだけ見えたような気がした。
「嫌いなのか」
「嫌いやね。育ちの悪いアホのくせに、善性だけまともなのがキモい。殴りたくなる」
「そうか。あんたとはとことん感性が合わないな」
「遠藤さんは、好き? あの子のこと」
「好きだ」
正直に答えた。真実を取り繕う必要はなにもないと思った。細いうなじ越しの空気の揺らぎで、静流が笑ったのが分かった。
三階に繋がる鉄扉を通り過ぎ、屋上へ続く階段を上る。驚くべきなのかやはりというべきなのか、屋上階への扉の鍵は壊されていた。
いくつもの室外機や、どこへ繋がるか分からないダクトが、狭い敷地に張り巡らされている。景虎と静流は身を隠すように、ダクトの影にしゃがみ込んだ。
「この下のVIPルームに盗聴器仕掛けてるんで、周波数合わせてください」
「用意がいいな」
「織原の虎に協力してもらうんやから、お膳立てくらいはやらせてもらわな。幸い、今はSNSでなんぼでも人を雇えるんで。ホワイト案件ってやつやね」
自らをカタギと言ったわりに、やることはヤクザ顔負けだ。景虎は、胸ポケットの受信機のダイヤルをゆっくりと回した。そのうちに、他のチャンネルをかすかに拾っては捨てるノイズに混じって、男の声がはっきりと聞こえてくる。
《……こっちに……こらちゃん……怖がらなくてもだい……優しく……よ》
仕掛けたのはコンセント型の盗聴器だそうだから、場所によっては声が拾い辛いのかもしれない。大人の男が、誰かに話しかけるような声が聞こえてくる。
「タニガワか?」
「いや、ボクは声を知らんから、なんとも……お?」
《タニガワさんっ! ウチもうちょっとだけシラフで遊びたいなっ!? せや! 野球拳しましょ、野球拳!》
明るく澄んだ、よく通る声だった。繕ってはいるようだが、標準語のイントネーションが少し曖昧な、関西弁交じりの。
景虎も静流も、その声をよく知っている。二人して目を合わせた。さしもの静流も驚いているようで、俺は知らないと首を横に振った。
《ょこ……ちゃん、カワイイ! ……ふへへっ、パンツ……》
《よっしゃ~! タニガワさんが勝ったらぁ……パンツあげちゃう! その代わり、ウチが勝ったらテキーラ、ジョッキで飲んでぇ~! せ~のっ!》
ヤケクソのような野球拳の歌が聞こえてくると、景虎は本格的に頭を抱えた。ぐおんぐおんと唸る室外機の音が、自分の脳から鳴っているのかと思った。
「ふ、ふふ……確かに、アホで殴りたくなるな」
数日間一緒にいたが、静流の前でニコリともしなかった景虎が笑った。と、同時に、彼のオーラが殺気に満ち満ちてゆくのを、静流は驚きの目で見ていた。
階下で乱痴気騒ぎをする悪魔の横っ面と尻っぺたを、力の限り引っぱたく。
今まで全くテンションの上がらない仕事だったが、俄然やる気が出てきた。きっと仕事は成功するだろう。
間違いなく、クリティカルだ。
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