307 / 381

第四幕 六、ショコラ&エル・ディアブロ③

「おっ……?」  相手が女だと油断して身構えていなかったのか、思っていたより重い庄助のタックルに、イクラはわずかにバランスを崩した。タニガワの顔面を掴んでいた手がずるんと離れる。  庄助はイクラを突き飛ばすと、タニガワを庇うかのように、そこに身体を無理矢理割り込ませた。さっきまで赤ら顔だったタニガワの顔面が、蒼白になっている。庄助はしゃがみ込んで、血のついていない額をペチペチと打った。 「おい、タニガワさんっ! 大丈夫か!」 「……姉さぁん。男同士の喧嘩に割って入るのはあかんで。心配せんでも、後でこいつの死体の前で思いっきり可愛いがったるからよぉ」  何が面白いのか、イクラは自分で言って自分でウケている。庄助は振り向き、射抜くようなきつい目でイクラを睨みつけた。 「やかましい、こんなん喧嘩ちゃうやろが」  庄助の怒りを含んだ低い声を聞いた途端、イクラは露骨に嫌そうな顔になった。 「ん……? なんやお前、オトコか!? なんじゃその格好、気色悪っ! どおりで、やけに足がムキムキや思たわ、騙しやがって……!」  むかつく。好きで女の格好してるわけとちゃうのに!  しかし、こういった差別的な暴言は、すでにトキタで予行演習済みだ。ノーダメじゃボケ。とばかりに、庄助は言い返した。 「オッサンこそ不意打ちしとったやんけ、卑怯者。そんなんはな、男のやることちゃうぞ」  背後では、タニガワがひどく咳き込んでいる。どちらも敵とはいえ、腹が立つ。一方的にいじめるようなやり方は見ていられない。  とりあえずタニガワを助け起こそうとした庄助の横面に、鋭く重い張り手が飛んできた。  衝撃、次いで耳鳴りと痛みが同時に来た。鼓膜から脳に、ぱちぱちと白い火花が爆ぜる。 「オカマ野郎に言われたないのお」 「……く、はっ……」  胸ぐらを掴まれ、宙に浮くような勢いで引っ立たされる。自分の身体はこんな、片手でどうこうできるほど軽かっただろうか。  よく、腕相撲は組んだ瞬間に勝敗がわかるというが、掴まれたり触れられたり、それだけで大体の力量差はわかるものだ。体重が違いすぎる。  イクラの張り手は痛かったが、それでもおそらく本人にしては軽く叩いているだけなのだろうと理解できた。多分、本気で拳骨で殴られれば、すぐに顔中の骨が砕けてグニャグニャになってしまうだろう。 「女やったらタイガー・リリーの“試し打ち”に使ったろ思とったのに、予定変更じゃ。お前ら二人、変態同士の痴話喧嘩の末、相討ちで死んだってことにしよか」  錦鯉の刺青の前腕が、庄助のワンピースの襟元を掴んでいる。本当に、女の服は慣れない。ペラペラで機能美ってもんがない。武器を隠すスペースもない。嫌になる。もう一生着ない。庄助は心に誓った。 「……っセト、ツグミも、その試し打ちで殺したんかよ」 「あれの友達か? へえ~、じゃあお前もネコかトリなん?」 「ネコ……トリ?」  聞き慣れない、というよりも、この話の流れにおいていささか不自然に思える言葉のチョイスに、庄助は疑問を持って聞き返した。が、イクラは自分の言いたいことしか答えなかった。 「あいつもかわいそうにのお。自国じゃ生きていけんから、日本で戸籍買ったのに。結局、強いモンに食われて死ぬんやったら、国の土の上が良かったやろなあ」  戸籍……じゃあこいつらが殺したのは、本物のセトツグミさんに成り代わった人やんな? ってことは、成り代わった女も悪い人ってことか? 悪い人が悪い人に殺されたってこと?  庄助には何が何だかよくわからなかった。 「オンマオンマ~ってよ。バッド入って幻覚見て漏らしとったぞ。ええよな、女が我を忘れてこう……ガタガタ震えて泣いとんのは。何人(なにじん)であろうとチンポにくるわ」  何もわからないなりに、ひとつわかったことがある。この男は、吐き気をもよおすような卑劣漢で、生かしていてもこの世のためにならないということ。  鯉の刺青に立てていたつけ爪は、いくつか剥がれて飛んでいった。庄助は自分の後頭部に指を伸ばし、探った。ウイッグの後ろ、フレンチリボンのバレッタを、そっと外して抜く。 「ん……? なあ、お前どっかで会ったことあるけ? まあええか、そろそろ死ねや」 「……お前が死ねこの豚トロっ!」  脂ぎった顔面の真ん中で胡座をかく、団子鼻。その真ん中の目と目の間、正中線を狙って、庄助はバレッタの金具を深々と突き立てた。 「はぎゃっ」  思ったよりサクッと入り込んで驚いた。もっと骨に邪魔されるかとも思ったのに。  国枝がいつもデスクでマイナスドライバーを研いでいるので、庄助もそれに倣ってみたのだ。丁寧にヤスリがけをして、指が切れるほどに薄く鋭く尖った金具は、イクラの鼻の上に可愛いリボンとして、見事に突き刺さっている。  拘束から逃れた庄助は、イクラが雑に転がしていたテキーラの瓶を引っ掴むと、今度はそれでイクラの側頭を一発殴った。  さすがに脳が揺れたのか、イクラは嗚咽とともにがっくりと倒れ伏す。 「おいっ! タニガワさん起きろ! なんかようわからんけど、もう行くで!」  倒れ伏す半裸の血まみれおじさんを、パンプスの先で突く。う~んしょこらちゃん可愛いね……と寝言のようなうわ言を洩らしたあと、タニガワは口から緑色のゲロを吐いた。 「おわぁ、きたなっ……! お、おい、ゲロ吐いてる場合ちゃうって! 根性見せろヤクザやろっ! せ、せや……スタッフさん呼んで通報してもら……っみぎゃ!」  ドアに向かって駆け出そうとした右足首を誰かに掴まれて、庄助は胸から地面に着地した。衝撃で肺の空気が出て行って、一瞬息が止まる。持っていたテキーラの瓶は、壁際に転がっていった。  ゴホゴホと咳き込む庄助の足首を掴むのは、イクラだ。鼻にリボンを刺したまま、血だらけの顔面で笑っている。

ともだちにシェアしよう!