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第四幕 七、無常の野に徒花の咲く②
「そうか。タニガワ氏はキミにだったら、ちゃんと話をすると言ってくれてるんだ。もちろん彼には手荒なことはしていない、イクラ氏とは別室で、丁重にもてなしているよ。一緒に来てくれると助かる」
タニガワ氏には。と言った。ではイクラには手荒な真似をしているのだろうか。景虎が? 静流が? 胸がざわつく。正直イクラはどうなってもいいが、二人にはイクラと同じところまで堕ちてほしくなかった。
すぐにでも景虎に会いたい一心で、庄助は躊躇うことなく頷いた。
オウム男は、面の向こうの目を優しげに細めた。
「そうか、ありがとう。協力に感謝するよ、レディ」
レディじゃない、と言いかけて、喋れないので押し黙った。さっきから思っていたがまさか、この期に及んでこの男は、自分を女だと思っているのだろうか? 誰だか知らないが、女に見えるんだったら、せめて拘束を解いてくれ。庄助は目で訴えた。
オウム男は、庄助の顔をじっと見た。もしかして、男と気づいただろうか。それとも、つけまつ毛が取れかかってるとか?
庄助もまた、彼を見た。お面の目の部分の穴の陰になって、結膜の部分まで真っ黒に見える。胸騒ぎがするような総毛立つような、目の粗いヤスリで胸の内側を撫でられているような、妙な心持ちになった。
「なるほど……悪魔は、望むものの願い通りに姿を変えるというけど、本当にそうだ。彼らにはキミがどう見えているのかな」
不思議そうに、彼は言った。
こいつは何の話をしているのだろう。庄助は訝しんでみたものの、皆目見当がつかなかった。彼のおとぎ話の読み聞かせのような、柔らかな低い声が、そっと耳に入り込んでくると、なぜか頭がぼんやりとして眠くなってくる。
オウムの面が引き上げられて、顔の下半分が見える。男らしく四角い顎、筋肉のついた首から頬。加齢で少しもたついてはいるが、キュッと上がった口角は、随分人が良さそうに見える。
「さあ行こう、立てるかな」
スライドドアが開く。男の鼻の下、人中に汗が光っているのが見えた。庄助は、パンプスの足をゆっくりと下ろして、地面を踏む。不自由な身体を支えられながら車を降りかけたとき、
「どこにいくんだ」
聞き慣れた声がして、庄助は勢いよく顔を上げた。
月明かりを背に受けて、夜の埠頭のアスファルトに立つ長身の男。冗談みたいなシチュエーションですらサマになる、それは間違いなく景虎だった。
「ん! んんんっ!」
じたばたと暴れて存在をアピールする庄助を、景虎は冷ややかな目でちらりと見た。生ぬるい潮風が、粘着テープの貼られた頬を撫でてゆく。
無数のパイプが絡み合う、ひときわ背の高い建物が月の真ん中を裂いている。それを背負った景虎のシルエットは、世にも美しき異形にも見えた。
「やあ、首尾はどうだい? 彼女に手伝ってもらおうと思って呼びに来たんだ。タニガワ氏の件、協力してくれるそうだよ」
「縛り上げたままでか?」
景虎が口を開くと、庄助は自分がまだ拘束されていたことに気づいた。そうだ、協力するためについていくと言っているのに、こんな格好のまま歩かされるのは、おかしい気がする。
「色々と聞き出すために、そいつをタニガワへ献上する気か?」
「言い方ってもんがあるだろ、しま次郎くん」
オウム男は肩をすくめたが、なぜか嬉しげだった。庄助は唖然としたが、そもそも初対面の人間の言うことを信じてついて行ってはいけないなんて、幼稚園児でも知っていることだ。疑いもしなかった自分が恥ずかしくなった。
「置いていけ。俺はそいつに話がある。それに詰問は俺 の仕事だ。あんたらは帰れ、ここに居た痕跡を極力残さずにだ」
「一人で幹部二人を詰める気かい? いくらキミが優秀でも……」
「たとえあんたが上手にあいつらを白状させたとして、“後始末”は俺たちにしかできない。それが本職とあんたらの違いだ。安心しろ、情報は共有してやる。出し抜こうとはしない……そっちと違ってな」
「いやあ誤解だよ、僕は……」
景虎は黒黒とした鉄塊を腰の後ろから取り出すと、真っ直ぐ腕を伸ばし、構えた。
庄助は、生まれて初めて間近で銃を見た。思っていたよりずっと重そうだ。なんて、呑気なことを考えるほどに現実感がない。真っ黒で光を反射しない銃身は、闇の世界に生きる男たちの目にそっくりだった。
「……射撃は、下手なんじゃなかったのかな?」
「試してみるか?」
常闇のような銃の口の中は、お面越しに男の額を捉えている。緊張しすぎて震えることすらできない庄助の、ドレスの肩を支えていた大きな手が、そっと離れてゆく。
「僕たちが、ハイエース に乗って帰っても?」
「もちろんだ、ウサギ野郎を呼んでさっさと帰ってくれ。その前にこいつの荷物をもらう」
オウム男は両手を上げながら、車の中からバッグとタオルケットを引っ張り出し、銃を持っていない方の手にそっと渡した。
「では、おやすみ。しま次郎くんと……レディ・ディアブロ。またキミに会いたいものだ」
男は存外穏やかに告げると、ゆっくりと後退してゆく。去ってゆく足先が闇に見えなくなり、やがて巨大な倉庫たちの陰に溶けるように消えた。
男の姿が見えなくなっても、冷たい銃口はしばらく、埠頭のくらがりに向けられたままだった。
「お前はこっちだ」
景虎の手が、庄助のドレスのウエストを引き寄せた。
これから何をされるのだろうか。庄助は考えようとしたが、すぐ諦めてしまった。今になって膝が、かくかくと笑いはじめたからだ。
アスファルトのかすかな凸凹にパンプスの細いヒールを取られて、不自由な体幹がぐらぐらと揺らぐ。
倒れそうになった庄助を、銃を持ったままの景虎の手が、がっしりと支えた。
「ふ……っ!? ん、んくっ」
突如、自分の脇の下から生えてきた熱持たぬ黒い鋼鉄に、庄助は驚いた。
さっきイクラの脚を撃ち抜いていたそれは紛れもない本物だ。その事実に、緊張状態が続いていた身体の筋肉が、不意に制御を放棄した。
「んっ……ふ、ううっ、んっ……!」
スカートの間、腿を伝った生温い液体は、アスファルトに見る間に染みを作った。縮こまったペニスから放出された尿は、チョロチョロと音を立てて暗い地面を濡らしてゆく。
漏らしてしまった庄助の姿を見ても、景虎は表情を変えなかった。
「ふひ、ウッ……んゅ、うっ」
「どうした、再会が嬉しくて漏らしたのか」
力を込めて引き寄せられた腰が、ズキンと刺すみたいに熱くなって、そのことが信じられなかった。濡れた足が気持ち悪い。湿った空気に、かすかなアンモニアの匂いが立ちのぼって混じる。恥ずかしくて死にそうだった。
けれど、庄助は知っている。これからもっと、恥ずかしいことをされるということを。
「見ててやるから、全部出してけ」
下腹を銃のグリップで押され、庄助は早くも涙ぐんだ目で景虎を見上げた。
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