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【番外編】ミーツ・シーオッターズ・ハッピーラブ・ジャーニー③
館内は大勢の観光客で賑わっているものの、都市部の水族館のように身動きが取れないような混み方ではない。通路の幅が広く歩く幅は十分にあるが、人気の水槽の前には人が群がっている、という感じだ。
実に様々な魚や海獣がいた。
カラフルで美しい熱帯魚、慎ましく力強い川魚たちや、古代の神秘を感じさせるカブトガニにオウムガイ、真っ白な肌のスナメリなど。
暗く、仄青い順路を進む庄助の生き生きとした瞳が、くるくると泳ぐツノダシの黄色やバイカラードティーバックのピンクを、鮮やかに反射している。
キレイだ、と言いかけて、景虎は口を噤んだ。庄助のことを言っているとバレたら、こんな人の多いところで言うな、なんて怒られてしまうかもしれないから。
順路の先、屋外にある水槽の向こう。アクリルガラスに身体をくっつけて、セイウチが寝そべっている。
本来は寒い国の動物である彼らに日本の猛暑を過ごさせるのは、何故かひどく申し訳ない気持ちになる。セイウチはそんな景虎の思いをよそに、小さな爪の生えた前肢を二度ほど、体の前で拍手のように叩いてみせた。ファンサなのだろうか。
まだ幼稚園くらいの小さい時に一度、離婚する前の父と母に連れられて来たことがある、らしい。ラッコがいたかどうかは憶えていない。庄助はそう言った。
「ちっさい頃の記憶なんか、そういうもんやでなァ。つーか、関東にも水族館ぎょうさんあるやん。ラッコおったんちゃうん」
「ああ、もちろん居た。だから、いつでも見られると思っていたんだ。甘かった。当時の俺はラッコを取り巻く環境について、あまりにも無知だった。海外からラッコの輸入ができなくなっているなんて、思いもしなかったんだ……」
景虎は頭を抱えて悔やんでいる。動物のことになると饒舌になる性質が、出会った当初の庄助には気味悪く写ったものだが、もうすっかり慣れたものだ。
「うん……まあ、あんま学校で習わんもんな、ラッコのことは」
そう軽く流して、ぬるくなったのを無理して飲みきったペットボトルの空をゴミ箱に捨てる。真昼の高い太陽に追い立てられるように、足早に館内に戻った。いよいよ二人は、ラッコの水槽を目指す。このために遠くまで来たのだ。
「ああ……待ってくれ、緊張してきた」
普段まったくと言っていいほど緊張などしない男が、こんなことで青い顔をしている。庄助は苦笑した。
「ごっつい推してるアイドルに、これから会うみたいな感じ?」
「それはよくわからんが、ラッコに会うのは夢だったからな……」
「そっか、巨大な感情やな。ええやん。あ、見て! ダイオウグソクムシやて! でっかいダンゴムシや!」
庄助の返事は雑だが、決して否定ではない。動物が好きだと言うと、だいたい外見や職業とのギャップを笑われるものだ。が、そういえば庄助は最初から、景虎の趣味を笑い飛ばしたりしなかった。
彼のことをひとつひとつ深く知るたびに、景虎は思う。自分なんかと釣り合わないくらいいい奴だと。確かに庄助は、底抜けのバカだしワガママで気が短い。けれどどうしたって、性根がキレイなのは変わらない。変わってほしくない。
「カゲ! こっち、ラッコ混んでる! 並ぼ!」
そう言って、手首を掴んで引っ張られる。景虎は正直、ナメていた。庄助という男のことを。
新しい場所で新しい庄助に会うたびに、またどんどん好きになる。もちろん最初から好きだったが、一人の人間のことをこんなに深く愛おしくなるだなんて考えもしなかった。庄助と同じ目線で見る世界が、こんなに輝いているなんて。
老若男女がみんな目当てにしているであろう大きな水槽の前には、そこだけ別次元のように人がぎゅうぎゅうにひしめいている。
二人でしばらく順番を待って、やっとどうにか水槽のガラスの前に立ったとき、景虎の目の前をしなやかな灰褐色の毛皮が、すうっと通り過ぎていった。
顔を上げると、分厚いアクリルガラス越しに、二頭のラッコがプールの中で遊泳しているのが見えた。
「あ……」
老いて白くなった体毛が、水を弾いてきらめいた。潜水して回転したかと思うと、水面に顔を出してこちらを真っ黒な丸い目で見つめたり、プールの隅で三角コーンで遊んでみたり、彼女らの仕草はまるで本物のアイドルのようだった。
「貝食べて殻捨ててる! かしこいな~」
ラッコたちがバケツの中に貝殻を捨てる様を見て、皆一様に色めき立った。が、景虎は声も出さずにじっと水槽の中、彼女たちの挙動を見つめていた。
底まで深く潜り、体を反転させて水面に顔を出すたび、光の輪が水面にいくつも浮かび上がる。それらを見ていると、人のざわめきがだんだんと消えてゆく。
ずんぐりとした身体が被毛に纏った空気とともに、水中にとぷんと沈むその静かな音が聞こえるようだった。
美しくどこか寂しげな二頭の老いたケモノが、細かな泡をまとって旋回するのを、景虎はものも言わずずっと見つめていた。
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