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【番外編】ミーツ・シーオッターズ・ハッピーラブ・ジャーニー⑪
「明日からまた仕事とかダルすぎや~」
隣り合わせの特急の座席。窓側に座る庄助は、すごい速さで車窓を流れてゆく青い海を名残惜しそうに眺めている。
「現実に帰る時間だな」
景虎が腕時計を確かめた。時刻は午後一時半を回ったところだ。庄助の言う通り、明日の今ごろは事務所で国枝のご機嫌を伺っているか、はたまた営業先でレンタル用品の運び込みをしているかのどちらかだろう。
「ハ~ッ嫌やな~。あと一週間くらいゆっくりしたい」
足元のお土産の入った紙袋が、電車の揺れに合わせてガサガサと鳴った。織原組においては、一週間まとめて休みを取ろうが、シノギさえしっかり上納していれば問題ない。ただ、庄助は表の仕事をメインでやっている都合上、まとまった休みというのは盆と正月以外はなかなか取れないのだ。
「あ、見て。水族館で食ったラッコカレーの写真。スプーンの中にカゲの顔映ってる」
庄助のスマホの画面の中、ラッコの形に盛られた白米が、カレーの中に浮かんでいる。添えられたスプーンの曲面に、景虎らしき顔がグニャグニャに歪んで映り込んでいた。
「ふへへっ、変な顔~」
ついさっきまで、帰るのが嫌で拗ねていたと思ったら、もうご機嫌に思い出を振り返っている。
スマホの中のデータとして切り取られた旅行の風景たちの一つ一つ、このときはこんなことを話したとか、そんな些細な美しいことを、ずっと忘れたくない。景虎は強く思った。
「ラッコも見られたし、悔いはない。ありがとう、庄助」
水槽の中、二頭のラッコが赤い三角コーンを持って遊ぶ様を写した動画の、シークバーを手繰る指がぴくんと動いた。
「……悔いってなんやねん。ラッコくらい何回でも見に来たらええやんけ」
短い眉をキュッと吊り上げて景虎を睨むと、庄助は拗ねたように口を尖らせた。
「それはそうだが、日本ではもうラッコは新たに輸入できないんだ。彼女たちがいなくなったら、もう……」
「あんなぁ、縁起でもないこと言うなや。ラッコたち、めっちゃ元気やったし! そんな心配やったらまた来たらええし! いちいち暗いねんお前は」
「すまない……」
「そりゃいつかはあのラッコたちもおらんようになってまうし、それは残念やけど……でも絶滅したわけやないし。ラッコが海外におるんやったら、そこまで行ったらええやん。俺、外国って行ったことないからむしろ楽しみや」
景虎はその言葉の意味を少しの間自分の中で咀嚼したあと、意外そうに目を瞬かせた。
「……それは、庄助も俺と一緒に来てくれるということか?」
「え!」
今度は庄助が驚いた顔をした。かと思うと、すぐに頬と耳が茹だったみたいに真っ赤に染まる。当然のようについていく体で話をしてしまっていた自分が恥ずかしく、またそれについて照れてしまった事実もまた恥ずかしい。庄助は燃える耳を隠すように、両手で塞いでそっぽを向いた。
「あ……あかんのかよ」
「いや。嬉しい……単純に、すごく」
庄助が黙り込んでしまうと、電車の中の人のざわめきがよく聞こえる。夏休みはやはり家族連れが多く、子供の甲高い声が時たま耳をつんざく。窓の外にはまだ海が広がっていて、真昼の太陽をまともに浴びた海面が、零れた砂糖菓子のようにキラキラと輝いていた。
「カゲ、昨日言うてたやん。……旅行に行こうと思ったことないって」
「ああ」
「……あのな。俺ら、もう自分でどこにでも行ける。会いたい動物に、自分の足で会いに行けるんやで」
光る海に向かって、庄助は話した。少し遠慮がちな言葉は、いつもみたいに考えなしに飛び出したものではなく、人を慮る柔らかさに満ちている。雨雲が流れて割れたかすかな隙間から陽光が射すように、心の中に入り込んで触れてくる。腫れ物のような景虎にも、臆することなく。
やはり景虎にとって庄助はずっと不思議で、新たな一面を知るたび、好きになっていく稀有な存在だ。
抱きしめたい気持ちを押さえ、座席に投げ出された庄助の手、小指の先に、景虎は自分の小指を触れさせた。温かいそれは、逃げずに留まり続けた。
「そうだな。一緒に行こう。どこへでも連れて行くし、俺を連れて行ってくれ」
庄助が無言で、小さく頷くのがわかった。
自分の意思でここにいる。自分の足で、行きたいところに遊びに行ったのだ。たったそれだけのことなのに、景虎はすごく誇らしい気持ちになった。気分がよかった。
「あ~。なんかやっぱ、カゲのせいで腹痛いかも……」
「人のせいにするな。ただの食いすぎだろ」
庄助の照れ隠しを笑い飛ばす。景虎は、小指にあたるちいさな温もりと、電車の揺れが心地よくて目を閉じた。車窓の向こうはどこまでも晴れている。
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