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第四幕 十、全員悪人②

 佐和が倉庫の鉄扉に手をかける。ぐっと力を込めて手前に引くと、隙間から生暖かい空気と、|饐《す》えたような匂いが流れ出してきた。  ぐったりとした大きな体のシルエットが、差し込む朝日によって、徐々に顕になってゆく。正面階段の手すりに後ろ手に括り付けられ、がっくりと項垂れたイクラの足元、ビニールシートの上には水たまりができている。凄惨な暴力の跡が、シートのあちこちに赤黒く飛び散っていた。 「これ、一回ホースで洗ってもいいですか?」 「ああ。血液反応(ルミノール)を気にしているなら問題ない。どうせ後で業者を入れる」 「リッチですね、織原は」 「そっちこそ、儲けてるんだろう。『タイガー・リリー』で」  佐和が肩をすくめる。織原が借りているこの場所は、元は食品を缶詰に加工する工場だった。壁際の職員用の手洗い場の蛇口を、佐和がひねった。アルミの深いシンクに、ぼたぼたと勢いよく水が落ちる音がする。廃工場の体をとってはいるが、もちろん電気も水道も生きている。佐和は水を止めてひとり頷くと、今度は干からびたヘビのような、長いホースのくっついた蛇口をひねった。 「どこまで聞きました?」 「言う必要があるか?」 「あるでしょ。ウチの不始末とはいえ、ここであんたらが殺りゃあいいものを、わざわざ引き取りに来たんだから。織原は仁義の集団なんでしょ」 「……仁義の集団なんて思ったことがないが。そうだな、イクラが、タニガワの愛人……セトツグミに『タイガー・リリー』の試し打ちをして殺したことは聞いた。それと……」  佐和の持つ塩ビホースの青い先端がぼこんと大きく膨らみ、水を放出する。足先に冷水を受けたイクラが、ぐう、と呻いた。庄助によって鼻に突き刺されたはずのリボンのバレッタが、今は太腿に刺さっている。刺してからしばらく経つのか筋肉になじんだそれは、ホースの水圧程度では抜けなかった。   「それと、あんたら川濱組が、戸籍売買ビジネスをデカいシノギにしてることだな」  外気温と経年劣化で内部が溶けてくっついているホースの水の出はまばらで、水圧が時々、褪せた青緑の胴を、蛙の喉のように膨らませた。その様は、結腸までペニスで貫かれ、景虎の形を臍の下にうっすらと浮かび上がらせ悶える、庄助の白い下腹を思い出させる。  その光景に、景虎は軽く欲情した。先ほど食ったばかりなのにすぐに腹が減る成長期のように、満たされたはずの肉体が、もっと庄助と触れ合いたいと叫んでいる。心地よい飢えだった。 「何だかんだ日本人の戸籍は、需要あるんで。俺らがやってんのは、売りたい人、買いたい人のマッチング請け負いですね」  撒き散らされる水が、小便や血液を洗い流してゆく。ビニールシートの皺が寄って波打つ面、そこに流れる水に、扉や窓の隙間から忍び寄った細い陽の光が反射していた。キラキラ光る朝の海面のようで綺麗だった。水の中で薄まって、赤く細い渦を巻く血の赤は、景虎がいつか見た命の色だ。誰のものであろうと、命の赤は平等に美しい。 「ぐ、クソ……っ佐和おどれ、タニガワとつるんで織原なんかと仲良うしとんのか。いよいよ川濱も終わりやのお、このダボが……」  イクラが苦しそうな声を上げた。 「ああ、イクラさん。起きました? すみませんね。漏らしてんのをそのまま触るの、無理なんで……夏だし、すぐ乾くと思いますよ」  佐和が手早くイクラの身体を洗い流してゆくのを、景虎はじっと見ていた。 「じゃかあしいわボケッ! 遠藤ォっ、お前も許さへんぞ、そのキレイな顔の皮を剥いで、あの女の格好したガキに送りつけたる!」  イクラが勢いよく顔を上げた。叫ぶその顔面に水が襲いかかる。タニガワから受けた制裁により裂けた唇や、内出血で真っ赤になった結膜を、水圧が容赦なく打って洗い流してゆく。 「あ、それいいですね。イクラさんの顔の皮、奥さんとお子さんに送っておきます。……冗談すよ、カタギには手を出さない。あんたらと違ってね」  佐和の淡々とした仕事ぶりは、景虎にとって親近感を覚えるものだった。例えば、髭を剃ったあとの剃刀を片付けるような。割った卵の殻をゴミ箱に捨てるような。そんなごく当たり前の慣れた、仕事というよりもはや生活の所作だった。 「ごっ、殺したる、お前も……た、タニガワもォ゙っ……!」  ホースの水に溺れながら、水を飲み込み吠えるイクラの頭に、佐和は慣れた手つきで麻袋を被せてゆく。怒り狂う猪のようなうめき声が、繊維の向こうでくぐもって響いた。

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