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第四幕 十、全員悪人⑤

「これは……?」 「さあ? 俺は知りません。なんせ落とし物なんで」 「もうええやんカゲ~。はよ帰って寝よ。今日の夜、遅刻したら国枝さんにしばかれるて」  佐和があくまでとぼけるので、庄助は早くも飽きてグズりはじめた。 「……クニッ……」 「ん?」  何かの言葉に反応して、唐突に緊張し始めた佐和を、庄助は怪訝な顔で見上げた。今までの気怠げな雰囲気と打って変わり、目をキョロキョロと泳がせている。 「いや、何も。何もないスね。はい。ま、とにかく……失礼します」  裏返った声を咳払いで誤魔化すと、佐和は慌ただしく運転席に乗り込んだ。  なんやあいつ気持ち悪。庄助は怪訝な顔をした。 「また会おうな、しょこらちゃん」  前方から野太い男の声がする。顔を上げると、悠々と走り去る助手席の窓から、サムズアップの無骨なタニガワの手が突き出ていた。 「あ!」  タニガワのスーツのポケットには、野球拳の際に奪われたボクサーパンツが入っていたはずだった。返してもらうはずだったがもう遅い。朝の静寂の中、鈍重なエンジン音を響かせる黒いコンテナトラックは、埠頭の奥の道路へゆったりと滑り出していく。庄助と景虎はそれを見届けた。 「……俺らも、はよ帰ろ」  これでよかったのだろうか。わからない。最善を選んだという自信はない。ただもう庄助は、風呂に入って重い体を横たえたかった。景虎に抱かれてから、濡らしたタオルで拭っただけで、シャワーも浴びていない肌に、潮風や鉄錆が絡みついて気持ち悪いことこの上ない。  景虎は庄助の腰を抱くと、体をぴたりとくっつけた。 「クサイ、庄助。汗と血とザーメンのにおいだ」 「は!? おっ……おま、誰のせいや思とんねん!」 「ふふ、髪の毛もガビガビだ。生まれたてのウズラみたいで可愛い……」  庄助からする匂いなら、どんなものでも愛おしいと、先ほどとは打って変わって柔らかく崩れた景虎の表情を見て、庄助の張り詰めていた身体はゆっくりと緩和していった。 「帰るぞ。まだやることが山積みだからな」 「うん……なあカゲ、この後お前さ」  そう言いかけた瞬間。二人の耳をつんざいたのは断末魔のようなブレーキの音だった。早朝の埠頭の、静かな波の音を真っ二つに切り裂いた直後、間髪入れず、腹の底を揺るがすようなドンという音が轟いた。  佐和たちの乗ったトラックが左折して、消えていった道路の先だ。 「な……!?」  呆気にとられる庄助の目に、建物の陰から手を伸ばし始める黒煙が見えた。 「まずいな」  景虎は庄助の腕を引っ張ると、そばに停めてあった作業車に飛び乗った。エンジンの唸りが、心臓の音で聞こえないなんて初めてだった。あまりのことに、庄助は言葉もなかった。勢いよく閉めたドアの隙間から、喉を焼くような焦げ臭いゴムと油の匂いが、すでに車内に侵入していた。  廃工場の敷地を抜け、海沿いの道へ車体をねじ込む。庄助はようやく、震える手でシートベルトを装着した。 「な……何がどうなってんや!?」 「ブレーキの音の前に、かすかだが発砲音がした。襲撃だろうな」  景虎はこんな時も、腹が立つほど冷静に見える。 「だれがっ、だれにっ!」 「さあな。佐和がつけられていたか、もしくは……」  ちらりとバックミラーを目だけで覗き込むと、景虎は庄助の頭を左手で鷲掴みにした。伏せろ。と、抑揚のない低い声が囁く。  後方から破裂音が響いた。当たれば一撃で生命を奪ってしまうにしては、無味乾燥で味気のない単調な衝撃が数発、車を揺らす。​  運転席の横、景虎の身体のすぐ横のサイドミラーが、根本の接続部からボルトごと引きちぎられるようにして吹き飛んだ。  バキンと木の枝がへし折れるような音が響き、鏡面を収めていた黒い樹脂の塊が、風を切って後方へ飛び去っていくのが、一瞬だけ視界の端をよぎった。  他者から強引に与えられる死がすぐそこに佇んでいるのを、庄助はこれ以上ないほど強く意識した。

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