360 / 381

第四幕 十五、仁義の在処①

 裂けた皮膚の赤や、そこから覗く脂肪の黄を見て気分が悪くなったり、泣き叫ぶ人を見て耳を塞ぎたくなったり。  これは全て共感という、人間が人間の社会を維持してゆくために備わった機能であり、教育と成長の中で得た倫理の賜物である。  野生に生きるケモノには、本能こそあれど道徳はない。インパラの頚椎をへし折ってから、罪悪感で嘔吐するライオンが存在しないように。  したがって、他人を傷つけるという行為を上手く遂行するには、一度心をケモノに立ち返らせなくてはならない。共感のスイッチを完全に落とすのだ。  決して仕事を楽しむ必要などない。むしろ人を害する行為は楽しまないほうがいい。楽しみとは期待で、その期待が裏切られると人は冷静さを失う。冷静さを失うと、失敗する。  これができないヤクザ、マフィア、屠畜業者、死刑執行人などは心を病んでしまう。拷問も殺しも、淡々とやるべきだ。淡々とやらないから、後に罪悪感で幻覚や悪夢を見るようになる。そんなのは三流だ。……これらは景虎がヤクザになってから国枝から教わった考えであり、実際にそのとおりだと思って今まで生きてきた。  それでも。  泣いている庄助を見ていると、素直に彼の魂が羨ましく思える。  傷ついた人間に全力で共感し悲しむ庄助を、なんとまともで美しい存在なのかと、景虎は感心する。  ユニバーサルインテリアの事務所の隣には、職員の仮眠や休憩用に使っている一室がある。簡易な寝具やキッチン、畳敷きの間などが備え付けられていて、仕事で泊まり込みになる際に使用している。  その部屋の奥に、懲罰室というものがある。  ナカバヤシはそこにいた。まさに人間社会の倫理から外れ、隔てられた空間だ。  飾り気のない仮眠室の端に、のっぺりとした灰色の、夏場でもひんやりと冷たいスチールのドアが静かに佇んでいる。一見すると倉庫の扉に見えるそれが懲罰室へ続く扉だ。  ヘマをした者がそこに入れられ、罰を受ける。一般の会社に擬態したユニバーサルインテリアにも、そういったヤクザらしい一面はしっかりとあった。  もちろん、滅多にないことで、庄助が来てからはそこで懲罰を受けたのは、せいぜい向田くらいのものだ。  防音の効いた室内は、エアコンの通気口にまで専用のダクトが埋め込まれ、どれだけ叫ぼうが外には聞こえない作りになっていた。  景虎は、そっと懲罰室のスチールドアの向こうを伺った。今はトキタとザイゼンが聴き取りをしているはずだが、振動すら伝わってこない。ドアに耳をぴたりとくっつけて初めて、中で何が行われているかわかる程度の、嫌になるほどの完璧な防音だ。  仮眠室のドアが控えめにノックされたが、庄助は顔を上げなかった。窓際の畳敷きのスペース、丁度懲罰室のドアの向かいに座り込み、膝を抱えている。  景虎が代わりに立ってドアを開けると、事務員の廣瀬(ひろせ)ヒカリが気まずそうに立っていた。

ともだちにシェアしよう!