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第四幕 十五、仁義の在処③
「どうにもならんのかな……ナカバヤシさんにも、なんか事情があるんかもしらんのに」
ぐずぐずと鼻をすする音が聞こえる。
「あったとして、親父を殺そうとしたならもう後はない」
「でも、じゃあこの時間は何なん? 後はないのになんで痛めつけるん?」
「詳しいことを吐かせるために決まってるだろう。ナカバヤシのことはもう諦めろ」
「頭おかしなりそうや……」
かぶりを振って、畳の上にフラペチーノを置く。カップの外側からつるつると、涙のように零れ落ちた水滴が、畳に滲んでシミを作る。
人懐こい庄助が、ナカバヤシと仲良くしていたのは知っているが、付き合い自体は短い。そこまで悲しむ理由が、景虎にはよくわからなかった。
「いいから今日はもう……」
景虎が言いかけた時、スチールの扉が勢いよく開いた。と同時に、ザイゼンに抱えられたトキタが飛び出してきた。二人とも作業着を血まみれにしているが、トキタの右半身が特に真っ赤に染まっている。
「景虎、車回してくれや」
荒い息を吐き、ザイゼンが言った。
「ミッ……耳、耳! 食いちぎられた! すげえ痛え!」
他人事のように言うトキタの瞳孔は全開だ。彼の言う通り、右耳の先端は真っ赤に染まっていて、血が面白いほどにぴゅるぴゅると噴き出している。
「……すぐ戻る。ここでじっとしてろ。中に入るなよ」
念押しのように庄助に言って、景虎は出ていった。後をザイゼンとトキタが続き、それを追いかけるように血がばたばたと落ちる。ザイゼンがひねったドアノブは、擦り付けたような血の跡が付着していた。
遠くでエレベーターの音がする。到着して、また降りてゆく。庄助はしばらく放心していたが、意を決したようによろよろと立ち上がった。景虎の言うことを聞く気がないのは、いつも通りだった。
ひたりと手を添えた扉は、ひどく重くて冷たい。引き開けると、中は血の海だった。上から下まで、古い血や新しい血が満遍なくこびりついている。
「ナカバヤシさん……っ」
床に伏していたのは赤い達磨だった。縛られ地面に無様に転がり、右耳がなかった。かろうじて認められる耳孔には、ガビガビにこびりついた血が固まり、小さな塔のようになっている。駆け寄って抱き起こす際に、上腕がぐにゃぐにゃに腫れ上がって、さらに手の指が両方とも、いくつか欠損しているのがわかった。
トキタとザイゼンがやったのだと思うと、身の毛がよだった。やっぱり彼らはいくら普通の人に見えたとしても、根っからのヤクザで、悪人なのだ。
「……ふ、へへ」
「あ……あっすみません、すみません! 痛いですよね、待って下さい、俺っ」
「……庄助」
肉片を吐き出したナカバヤシの口は、歯の隙間まで余すことなく、トキタのものなのか彼自身のものなのか判別のつかない鮮血に染まっていた。壁を背もたれに、ナカバヤシを座らせる。手が血で滑って、とてつもなく重かった。
いつもパチンコの景品を持ってきてくれたり、金が無いと言いながらも焼き鳥を奢ってくれた、気のいい中年男の姿はそこになかった。
「素人のガキぃひとり捕まえるのに、えれえ貧乏クジ、引いちまったァ……」
ナカバヤシが嗤う。丸坊主の人間に片耳が丸ごと生えていないのは、ひどく奇妙だ。庄助の背中には鳥肌がずっと立ち続けている。
「……でっ、でもナカバヤシさんは本気やったわけとちゃいますよね? だって、国枝さんに銃を向けたあのときも撃たんかったし、俺には体当たりで済ませてくれたやんか!」
「当たり前だろ、そんなこと……」
「じゃあっ」
「お前のことは“身体に傷をつけず連れてこい”って言われてんだからよ」
聞いたことのある台詞に、背筋がゾクリとした。ウーヤとカチに捕まった時、彼らも庄助をキレイな身体のまま連れて行くように言われている、と。確かそう言っていた気がする。
「あ、あっ……」
庄助は後ずさった。勝手に良心だと思っていた行為には、実は理由があった。はらわたを糞のついた靴で踏み躙られる気分で、吐き気すら覚えた。
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