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第四幕 十六、飢えと慕情①
子供の頃、母親に読んでもらったあの物語の結末は、果たしてどうなっただろうか。
虎と悪魔は、あれからいつまでも一緒に暮らしたのだろうか。
何度も読み聞かせてもらった話なのに、幼かったせいか靄がかかったように、結末を思い出すことができない。
懐かしい夢を見て目が覚めたとき、隣にいるはずの庄助の姿が見えず、景虎はソファから跳ね起きた。
柔らかく朝陽の射す窓際に置かれたベッドの上は、庄助が寝て起きたままくちゃくちゃになっている。
耳をそばだてると、外の蝉の声に混じり、シャワールームの方から水の音が聞こえてきた。生き物の動く気配に、景虎はひとまず安心する。
元の家で庄助が使っていた枕とタオルケットだけが、何もかも知らない家の中の、唯一の安息地のようだった。
急ぎで決めたために、内見も駆け足だった新居に、景虎はようやく足を踏み入れていた。三階の角部屋は、人が住んでいなかった家独特の、閉じ込められていた塗料や木材の匂いがまだする。
ろくに片付けのされていない段ボールが数個、部屋のいたるところに雑に置かれている。表面には油性ペンの汚い文字で「カゲ」「俺」「ざっか」といった、庄助が書いた曖昧な指示が残っていた。床には開きっぱなしのスーツケースから、衣類が飛び出している。
「一人やとやる気にならんし……またすぐに、もとのカゲんちに帰れると思ってたから。片づけてへん」
庄助は昨日、寝る前にそう言い訳をしていた。
出張族向けの、家具付きのマンスリーマンションであるため、最低限の家電は最初から取り付けられている。
景虎は遮光カーテンの隙間を閉じるついでに、窓の外の景色に目を落とした。
飯屋の前の水たまりの表面に浮く脂に、午前とはいえ容赦ない陽光がぎらぎらと反射して、虹色のマーブル模様を形作っている。その上を、外国人観光客が昼も夜もなく騒いで通り過ぎる。見飽きるくらい典型的な、日本の都会の風景だ。
知らない洗面所に立つ。歯を磨き、剃刀でうっすらと生えてきていた髭を剃った。その際、浴室の庄助に声をかけると、おう、という返事が聞こえた。
景虎は鏡に向かって、安堵のため息をついた。
あの後すぐにナカバヤシの処分が決まり、景虎と庄助は一時帰宅となった。手を下すのは自分がやると、景虎は一度拒否したが、国枝は首を縦に振らなかった。
今は庄助についていてやらないとダメだよ。
国枝はそう言ったが、どの口がのたまうのかと景虎は正気を疑った。
極限状態の庄助に凶器を持たせ、誘導のような言葉をかけていた国枝の、邪悪な黒いレインコートの背中を思い出す。後一歩遅れていたら、殺人を犯していたかもしれない。あの時、ザイゼンが自分で運転して病院に行くと言ってくれていなければ、今頃もう庄助は“こちら側”にいたかもしれなかった。
景虎は、ここ数日でようやくくっつき始めた左小指を、ゆっくりと動かした。
国枝は、庄助を試していたようだった。長年の付き合いだからわかる。悪い道に引き込んで仲間にするだとか、そんな事は特に望んでおらず、おそらく単に国枝の純粋な庄助への好奇心だ。それが余計に腹立たしい。
しかしここ数日は、立て続けに色々なことがありすぎた。本格的に怒る気力も湧かないほどに、景虎自身もさすがに疲弊しているのは確かだった。
今日は化野も日中調べ物をしに出るといい、静流は静流で、日頃の仕事に加え、雑誌の取材とネット動画の出演依頼が入っているそうだ。
だからほんの少しだけ、フルスロットルで走っていた足を休めることにする。何よりせっかくの、庄助と二人きりの時間なのだから。
「なあ、庄助。腹は減ってないか?」
不透明な、向こうの見えないアクリルガラスに向かって話しかける。返事はない。
「庄助……?」
ドアを押し開けると、湯気の向こうに濡れた金髪が見えた。うっすらと日焼けした四肢がゆらりと揺れて、白い背中越しに庄助が振り向いた。
濡れて張り付いた前髪の隙間から、丸い瞳が景虎の姿をとらえる。うっすらと赤くなった下まぶたと少し痩せた頬が、妙に艶めかしく見えた。それは一瞬、庄助の姿を借りた別の何かのように映った。
「ごめん、聞こえんかった」
声が掠れていた。庄助はシャワーを止めると目をこすり、咳払いを一つして、バスタオル取って、と小さく呟いた。
「腹が減っていないかと思ってな。……何か買ってこようか」
改めて聞く。白く清潔なバスタオルの隙間から、不機嫌そうにひそめられた眉が見える。
「……なんもいらん」
景虎のシャツの裾を、湿った指が掴んだ。そのまま引っ張るように、まだ濡れた腕が胴に絡みつく。
「どこにも行かんとって」
バスルームの水滴が跳ねる。シャツが濡れるのも構わず、景虎はゆっくりと抱擁を返した。
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