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第四幕 十六、飢えと慕情②

「わかった」  タオルで髪や身体をワシワシと拭いてやる。出会った雨の日を思い出した。あの頃から今を思うと、庄助と二人でずいぶん遠くへ来てしまった気がした。 「カゲ、すぐどっか行こうとする」 「大丈夫だ、今日は庄助のそばにいる」 「今日はって、なんやねん……」  身体を拭かれ、頭から大きめのシャツを被せられ、されるがままの庄助が口を尖らせる。首元の水滴を指で掬うと、ぴくんと庄助の肌が跳ねた。 「……俺、ナカバヤシさんのこと殺そうとした」  髪も乾かさずに、手を繋いでベッドへ戻る短い道中、庄助は堪えきれないとばかりに切り出した。お互いに意図的に、その話題を避けている気がしていたのに。 「知ってる」 「あの場でナカバヤシさんを殺したら、カゲや国枝さんと対等になれる気がした。いまだに何が正解かわからん。俺、おかしなってもーたんかな」  生物が生物を殺す。ただそれだけのことに、正解なんて御大層なものがあるわけない。思い上がりも甚だしい。人が人のために作ったルールがあるだけだ。  だがその理屈を今の庄助に説いたところで、きっと理解できないだろう。景虎は黙ってベッドに庄助を座らせた。ふわりと庄助のタオルケットから漂う、柑橘のような陽だまりの香りが、こんな時でも愛おしい。 「暴力を振るうストレスでおかしくなるのが、人間の正常な反応なのだとしたら、庄助はおかしくない」  言葉にしてみると、まるで下手なパラドックスのようだ。気の利いた言い回しのできない自分がもどかしく、庄助の俯く横顔を見つめた。 「なんそれ……意味わからん」  色の抜けた髪が、水をまとって重い鈍色に見える。庄助は唇の端を上げて、力なく笑った。外の光が、カーテンの模様を白いシーツに浮かび上がらせて、何だか水の中にいるみたいだ。 「よう考えたら俺、ナカバヤシさんのこと、全然知らんし……一緒に何回か飲みに行っただけで、そんな仲良くなかった。大丈夫や……大丈夫」  一つ一つの言葉が痛々しい。シャワーで声をかき消しながら泣いていたくせに、何が大丈夫なものだろうか。 「色々あって、今お前は混乱してるんだ。無理をしなくていい」 「簡単に言うなよ。無理すんなとか。俺にも、意地っちゅーもんがあるんや」 「くだらない、意地なんてものは……」 「そのくだらん意地がなかったら、俺は今ここにおらん。お前に最初にレイプされたときに、大阪に帰ってる」  さすがに言葉に詰まって、景虎は気まずそうに唾を飲み込んだ。 「なあカゲ……お願いがあんねん。俺のこと、一回ぶん殴ってほしい。ボコボコに」  庄助の声は、掠れている。景虎は首を横に振ると、宥めるように背中に手を置いた。呼吸が荒い。 「そんなことして何の意味がある。やるわけないだろ、バカ」 「頭空っぽにしたいねんもん。ちょっとくらいええやんけ」 「お前は、大工の友達に『友達だからタダで家を建ててくれ』と頼むのか? 俺の暴力はいい金になるんだ。タダではやらない」  膂力(りょりょく)を誇らしげにしたことがない景虎が、自分の暴力が金になる、などと嘯いてみせるのは、それほど庄助を殴るのが嫌だということなのかもしれない。  庄助は拗ねたように黙り込んだが、すぐに何かを思いついたのか、景虎のシャツの裾を握って引っ張った。 「それやったら、さ。身体で払う……」  自分からは滅多に誘わないくせに、なんでこんなときに限って。景虎は驚いた。 「庄助……いい加減に」 「カゲの好きなことしていい。イヤって言わん」  性欲に濡れて言っているわけではないのが伝わる、やけに硬質で生真面目な誘惑だった。無理にでも身体を傷つけることでしか、どうにもできない感情があるのだろう。  可哀想だった。大人になるまで、大事にのびのびと育てられてきた青年が、悪の世界に憧れたばかりに、暴力に恐怖し傷ついている様が。  自分に、庄助の中の恐れと不安を一時だけでもかき消せることができるならと。信頼して身体を預けてくれる期待に応えたくて、赤く染まる立ち耳に、景虎はそっと牙を剥いた。 「後悔するなよ」 「あ……っ、わかってる……」  庄助がふと見上げると、先ほど風呂場で触れた場所のシャツが濡れて、景虎の肌にぺたりと張り付いている。白の綿の繊維の向こう、刺青がうっすらと透けているのを見つけて、庄助はぶるっと身体を震わせた。  すっかり萎びていた彼の意識の中、ちいさな情欲の種が芽吹いた。

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